開店から1年5か月の史上最速で、ミシュラン三つ星を獲得したシェフがいる。大卒で企業に務めた後、料理学校に通い、26才で仏料理店の門を叩いた遅まきのスタート。しかし塩1粒、熱0.1度にこだわる圧倒的情熱で、修業時代から現在に至るまで不可能の壁を打ち破ってきた。心を揺さぶる世界最高峰の料理に挑み続けるシェフ・米田肇のドキュメント。
フランスに生まれフランスに育ったフランス人シェフでも生涯の憧れであるミシュラン三ツ星を、なぜこの日本人は手にすることができたのか?
アンコール御礼!
トワイライトエクスプレス 瑞風で供される食事を担当する料理人の一人でもある、天才シェフ・米田肇を追ったノンフィクション『天才シェフの絶対温度 「HAJIME」米田肇の物語』の試し読みを全4回でお届けします!
* * *
レストランの仕事を、肇が甘く考えていたわけではない。文化の異なる日本とフランスの厨房で働きながら、この仕事の難しさをしっかりと見つめ、自分ならどういう店作りをするか考え抜いてきたつもりだった。それでもやはり、見ることと、自分ですることはまったく別のことなのだった。
肇が初めて経験した難しさは、人を使うということの難しさだった。厨房で盛りつけに夢中になっている自分でも、そろそろ客のコップに水がなくなっているんじゃないかと気になるのに、ホールに突っ立っているソムリエは、目の前の客のコップが空になっているのに動こうともしなかった。客のテーブルから下げた皿はシンクの中に置かれたまま、肇が気づくまで誰も洗おうともしない。『洗え』と怒鳴ったら、ようやく一人が動き出したが、その動きが驚くほど遅くてスローモーション映像でも見ているみたいだった。何をさせるにも、床に落ちたゴミ一つ拾わせるにも、いちいち肇が指示しなければならなかった。今時のロボットの方が、まだましな動きをするだろう。ふと、最初に働いたレストランのことを思い出した。シェフは当時の何もできない自分を見て、今の自分と同じことを思っていたのではなかろうか。
そのさんざんな初日を終える頃には、疲労困憊していた。他ならぬ肇自身が、このレストランで自分が何をしたかったのかがわからなくなってしまった。
記念すべき最初の2人の客を見送って、最初に肇が決めたのは、翌日から3日間店を閉めることだった。かなり格好悪いが、予約など一件も入っていなかったし、予約せずに店に直接足を運んでくれる客がいるとも思えなかった。いたとしても、何をしたいのかもわからないまま営業をしているようなレストランで食事をするよりはましだろう。
それから3日間、スタッフを客役とサービス役に分け、客がドアを開けて入ってくるところから、席に案内し、オーダーを取り、料理を運び、ワインを注ぎ、最終的に客を見送るところまで、一つ一つの接客についての考え方を丁寧に語り、練習を何度も繰り返させた。接客マニュアルのようなものはない。マニュアルは便利かもしれないが、どうしても接客が画一的になるし、なにより自分で考えなくなる。大切なのは、スタッフ一人一人が自分の心で感じ、自分の頭で考えることなのだ。
自分の頭で考える。それは肇が幼い頃、みんなから少し離れたところで、独りぼっちで遊んでいた時代から自然にやっていたことだ。けれど、人を使うようになってわかったのは、それを教えるのがきわめて難しいということだった。自分の頭で考える人間は、むしろ少数派なのだった。
何度でも繰り返し繰り返し、同じことを言って聞かせるしかなかった。
その作業は肇にとって、自分のやりたかったことをもう一度思い出す作業でもあった。
現実はいつも理想を打ち砕く。思わぬ誤算、信じられないミス、落とし穴、想定外の出来事……。始める前には、簡単だと思っていたことが、いざ取り組んでみると、途轍もない難事業に変わってしまう。
それが現実の壁というもので、だからこそ何かを成し遂げるのは難しい。理想が泥まみれになるのは、現実というゲームのデフォルトなのだ。
現実という泥沼の中から、砕け散った理想をもう一度拾い集め、自分たちの理想としてふたたび高く掲げるために、格好悪かろうがなんだろうが、開店したばかりの店を3日も閉めたのだと思う。
とはいえ、たった3日で状況が変わるはずもない。
「最初の頃は、お客さんが一日1組しか入らないなんて日がよくありました。いや、1組も入らない日だってあった。それなのに、やることはいくらでもあった。メニューを考えなきゃいけない、ワインリストもきちんとしたものを作らなくちゃいけない、スタッフに魚のおろし方も教えなきゃいけない、接客についても話さなきゃいけない。あれもできていないこれもできていないという状態で、改善しなきゃいけないことは山ほどあった。お客さんは1組しか入ってないのに、厨房を出るのは夜中の2時過ぎなんてことはざらでした。それでもまだ仕事は終わらない。夜中の3時過ぎに家に帰って、ようやく料理のことを考え始める。次はどんな料理を作ろうって、料理の本を見始めて、そのまま本を抱きながら眠ったりしてました。寝るのが明け方でも、翌朝6時半には市場へ行き、魚を仕入れて、スタッフが来るまでに、鱗を全部落として、さばいて、ラップして冷蔵庫に入れて。それが終わったら、クルマで岩永さんの店までパンを取りに行って。クルマを持ってるスタッフが一人もいなかったから、私が行くしかなかった。で、パンを取って帰ってくる頃にスタッフが出てきて、それから魚のおろし方を指導したり、魚に火入れをしてました。基本的なことから教えるんだけど、それもまともにできない。『これ違うだろう。全部ゴミ箱だ』っていうのを、毎日のようにやってました」
食材の下処理は、厨房のスタッフ仕事のいわば定番だ。けれど、それすら任せられなかった。食材はいつも最上のものを使っていた。魚はフランス料理店向けの仲買でなく、老舗料亭や鮨店に卸す専門の仲買業者から仕入れていた。もちろん値は張る。それだけに客が入っていない状況では、わずかでも食材を無駄にする余裕はなかった。
「ほんとに素人のスタッフしか集まらなかったんです。フォアグラも見たことがないという人を何人も教えてましたから。食器洗いも、営業中は私が全部やってました。スタッフに任せると食器が山ほどたまって、仕事が回らなくなるんです。私は3人前は動けるから、食器をぶわーっと洗って、料理を盛りつけて、魚焼いて、肉焼いて、また食器洗ってって、ほとんど一人でやってました。その合間に厨房のドアの隙間からホールを見て『あそこ、グラスに水入ってないぞ』とかやりながら。なんとか軌道に乗るまで1年くらいかかったんだけど、その1年間は戦争みたいでした。お客さんが入らないといっても、『ミシェル・ブラス』のヴィヨンド・シェフが店を出したっていうのでわざわざ食べに来てくれるお客さんはいるんです。そういうお客さんをがっかりさせたくはないんだけど、料理がなかなか出せない。最初の頃は、コース料理を全部出し終えるのに5時間もかかってました。『もうあり得ない』って言われましたから。スタッフのレベルさえ上がれば、もっと楽なんだけどって、よく思いました。彼らがもうちょっとなんとかなってくれれば、もっと違うことできるのにって。一人でやった方が楽なんじゃないって言うお客さんもいました。確かにそうかもしれない。正直言えば、考えたこともあります。一日1組のお客さんしか受けない料理店とかあるじゃないですか。それなら私一人でできる。それもいいかなって。でもそうしなかったのは、自分も前の世代に育ててもらったからです。自分の表現をしたいがために、自分一人でやったら、前の世代に教えてもらったことを、次の世代につなげない。仕事のできない私を、鍛えてくれたシェフがいたからこそ、なんとかここまで来れたわけですから。次の世代につなぐことで、その恩返しをしなきゃって思ったんです。まあ、そういえば格好いいんですけどね。教えることそのものは苦じゃないし、最初はずーっと教えてたんですが、でも何度繰り返し教えても、説明してもちゃんとできるようになってくれないんです。普通なら知ってるはずのことも知らないし。だからいつも怒ってたし、ずっとイライラしてました。なんでこんなこともできないんだろうって頭に来るばっかりで、自分の料理にちっとも集中できない。それでどうにもならなくなって、皿洗いから仕込みから、全部自分でやってしまうようになったんです。それなら怒らなくてすむから。最悪ですよね。でも、その状態がかなり続きました」
(「第八章 フォアグラを知らないフランス料理人見習い。」より)
※この連載は、『天才シェフの絶対温度 「HAJIME」米田肇の物語』の試し読みです。
つづきは、書籍をお手にとってお楽しみください!
天才シェフの絶対温度
開店から1年5ヶ月の史上最速で、ミシュラン三つ星を獲得!
心揺さぶる世界最高峰の料理に挑み続けるシェフ・米田肇のドキュメント。