最強にして最悪といわれる3人の独裁者――ヨシフ・スターリン、アドルフ・ヒトラー、毛沢東。彼らの権力掌握術について徹底的に分析した『悪の出世学』(中川右介著)。若いころは無名で平凡だった3人は、いかにして自分の価値を実力以上に高め、政敵を排除し、トップへのし上がっていったのか。その巧妙かつ非情な手段と、意外な素顔が明らかになる……。そんな本書の一部を、抜粋してご紹介します。
警察を支配下に置いたナチス親衛隊
こんにちの日本でも失脚して政治生命を失う政治家は多いが、生命そのものまで奪われるわけではない。しかし、ヒトラーは本当に殺してしまった。
突撃隊幕僚長エルンスト・レームは、ヒトラーが首相になり、全権を掌握していく過程で、ほとんど出番がなかった。レームは暴力革命を目指していたが、ヒトラーはかなりインチキな部分があるとはいえ、選挙による合法的な革命を実現してしまった。
それはそれとして、レームの願いは自分が育ててきた突撃隊を、これまでの国軍に代わる軍とすることだった。レームが帰国した時は七万人だった突撃隊は、一九三四年には四百万人になっていた。
しかし突撃隊の国軍化には、当然、旧来の国軍幹部たちは反対である。軍はヴェルサイユ条約の縛りで十万人しかいないのに、突撃隊は四百万人だ。当然、軍は突撃隊に呑み込まれてしまう。プライドの高い、ドイツ帝国時代からの軍の幹部たちにはとうてい、容認できないし、何よりもヒンデンブルク大統領がそれを認めない。
ヒトラーは軍を敵にまわすのは得策ではないと考えていた。このことからかつての親友であるレームとの間で、緊張が生じていた。
一方で、最初は突撃隊の一部門だった親衛隊は、ヒムラーの指揮下に入ると膨張していった。ヒムラーは秘密警察ゲシュタポの責任者でもあり、さらに各州の警察も指揮下に置いた。こうしてヒムラーは警察権力と親衛隊とを手に入れ、親衛隊の下に警察が置かれるようになる。
権力のためなら親友も殺す
軍にはなれない、親衛隊のほうが実権を握っている──突撃隊とそのトップであるレームは不満を抱いていた。このことをゲーリングやヒムラーは感じ取り、レームが叛乱しかねないと、ヒトラーに進言した。ヒンデンブルク大統領と軍の幹部たちも、レームと突撃隊を警戒しており、ヒトラーに対し、どうにかしろと言ってきた。
ヒトラーにとってレームは、彼がナチス党首になる前からの、「俺・お前」で呼び合う数少ない友人のひとりだ。それもまた、ヒトラーにとっては、邪魔だった。誰もが自分にへりくだって接するのに、レームは友人として接する。
権力を握る前からの側近と、握った後の側近との間では、衝突が起きるものだ。権力を握るまでの過程で必要だった人材が、権力獲得後も必要とは限らない。
ここへ至り、ヒトラーも、もはやレームは必要がなくなったと判断した。
しかし左遷するだけでは、いつ本当に叛乱を起こすか分からない。突撃隊からレームの影響を排除するにはレームそのものを排除するしかない。排除とは、すなわち粛清、つまりは殺害である。
レームを排除した後、突撃隊はヒムラーの親衛隊が引き受けることも決めた。
突撃隊はその暴力で批判されていた。この際、これまでのナチスの暗黒面の責任をすべてレームに押し付けてしまえば、ヒトラーはきれいなイメージを保てる。そして、昔からの親友であっても、不穏な動きをすれば失脚し、失脚はそのまま死を意味すると知らしめれば、自分に逆らう者は出ないだろう。
こう考えていくと、レームを粛清することに、何のマイナスもない。ヒトラーはヒムラーに粛清を指示し、さらにこの際だから他にも現体制に邪魔な者は排除しようと決め、そのリスト作りもヒムラーに任せた。
「長いナイフの夜」の幕が上がる
六月三十日、後に「長いナイフの夜」と称される粛清劇の幕が上がった。
この日、レーム以下の突撃隊幹部たちはミュンヘン郊外の温泉地のホテルに集まっていた。ヒトラー自らがそこにやって来て、全員を逮捕した。
前首相シュライヒャーは自宅で銃殺された。ナチスの左派の論客で党勢拡大に貢献のあった元組織全国指導者グレゴール・シュトラッサーも逮捕され殺された。ヒトラーは自分の敵になりそうな者はすべて殺すことにしたのだ。さらにはパーペン副首相も軟禁された。
それからの数日で、一千人以上が処刑されたと伝えられている。
レームとシュトラッサーの粛清とは友人殺し、同志殺し、ライバル殺しである。つまり、彼には友人も同志もライバルも、もはや不要だということだった。
その代償としてヒトラーが得たものは何か。
政権としては、軍との良好な関係を築くために邪魔になったレームと突撃隊を排除できた。さらに、ナチス内において、ヒトラー以外に強い権力を持つ者はあってはならないことを示し、党内反主流派の最後の一掃としてシュトラッサーも消してしまったのだ。
レーム粛清は、ヒトラーとナチスは何をやるか分からないという恐怖心をドイツ国民に植え付け、いわば、反抗する気力を萎えさせるのも成功した。