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平成精神史

2018.12.17 公開 ポスト

「日本会議」誕生の知られざるキーパーソン・黛敏郎片山杜秀

 

黛敏郎氏(『アサヒグラフ』 1952年10月29日号 Wikipedia)

平成9年に誕生し、安倍首相が掲げる「2020年改憲」にも影響力を及ぼしていると言われる日本会議。クラシック音楽評論家でもある片山杜秀さんは『平成精神史――天皇・災害・ナショナリズム』の第五章「日本会議の悲願」で、その誕生のキーパーソンとして、音楽家・黛敏郎氏に着目します。
(記事の最後には、白井聡さんとの刊行記念イベントのご案内があります)

平成9年、「日本会議」の誕生

日本会議の結成された1997(平成9)年は、自民党と社民党と新党さきがけの三派連立政権の時代、保守二大政党論真っ盛りの時代です。

そんな中で日本会議は、「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」が大同団結して結成されました。どちらも反共産主義、反ソ連、資本主義擁護、日本的なるものの礼賛という点では同じと思われますが、背景や構成員が大きく異なります。

「日本を守る会」は、1974(昭和49)年に神社本庁や生長の家など、宗教右派と呼ばれる勢力の指導的人物が集まって結成されました。代表委員には、生長の家の総裁・谷口雅春や、テレビドラマ『水戸黄門』の題字を認(したた)めた臨済宗の指導的僧侶・朝比奈宗源、日蓮宗管長の金子日威(にちい) 、明治神宮宮司の伊藤巽(たつみ)、笠間稲荷神社宮司の塙瑞比古(はなわみずひこ)など、仏教界・神道界の言わば憂国の僧侶・神官らが名を連ね、そこに平成の名づけ親とも言われた安岡正篤、修養団の蓮沼門三など、戦前からの国家主義的な思想家・運動家も加わりました。

一方、「日本を守る国民会議」は、1978(昭和53)年に結成された元号法制化実現国民会議の後身団体として、1981(昭和56)年にできました。元号法制化という目標は1979(昭和54)年、大平正芳内閣のときに達成されたので、とりわけ憲法第9条をターゲットとした改憲運動組織として、名を含めて改まったのです。

「日本を守る会」が精神運動団体としての性質が強かったとすれば、「日本を守る国民会議」は具体的な政治目標を掲げる、かなりストレートな圧力団体と呼べるでしょう。メンバーには「日本を守る会」と重複する神社本庁系の人々もいて、事務局の機能は神社本庁が担っていたようです。また、法相宗の高田好胤(こういん)のような大物僧侶も加わっていました。

けれど、「日本を守る国民会議」を特徴づけたのは、中心的な人々に学者・文化人や、財界人、旧軍人、政治家を擁していたことです。だからこそ圧力団体として機能しました。

学者・文化人としては江藤淳、小堀桂一郎、勝部真長(みたけ)、黛敏郎(まゆずみとしろう)など。財界人としては石川六郎、小山五郎、塚本幸一など。他に元大本営陸軍参謀の瀬島龍三や、旧陸軍から陸上自衛隊幹部、さらに自民党の参議院議員を長く務めた堀江正夫など。まさに多士済々です。

そしてもちろん彼らの政治的情熱は、ソ連の脅威ゆえに生み出されていた部分が大きかった。アメリカが共和党のレーガン大統領で、日本の首相が中曽根康弘であった一九八〇年代半ば、米ソ冷戦は最後の高揚を示し、「日本を守る国民会議」の運動も熱を帯びました。北海道にいつソ連軍が侵攻してきてもおかしくない。そう言われたものです。

しかし、ゴルバチョフ書記長のペレストロイカ路線は、ソ連を再生させるつもりで実際には崩壊させてしまいました。「日本を守る会」も「日本を守る国民会議」も、長年、念頭に置いてきた最大の敵を喪失し、特に「日本を守る国民会議」は存続の危機に陥っていったようです。

「日本を守る国民会議」は、反共と改憲を旗印に全国に草の根的な組織網を張りめぐらしていましたが、一九九〇年代以降は会員数も減り、組織存続の危機感が高まっていた。そこで「日本を守る会」と合流して生き残りをはかることとし、日本会議が誕生したわけです。

なぜ宗教右派と文化人・財界が結合できたのか

けれども、ここで疑問が浮かばないでしょうか。いったいなぜ宗教右派の「日本を守る会」と、文化人や財界人らが中心の「日本を守る国民会議」とが統合できたのか。確かに神社本庁の人々がダブっていてつなぎ役になってはいました。

しかし、人的構成も性質もやはり異なりますから、二つの組織を接着するのは自然な成り行きでできることではありません。ところが統合は成功し、長続きしている。日本会議は1997(平成9)年の結成以降、20年にわたって活動を続け、ついに日本の政治を動かす団体と言われるようになり、日本会議を扱う本がベストセラーになるに至りました。

日本会議が二つの母体の組織風土の相違にもめげず、それだけの存在感を示して続いているのには、やはり二つの風土を越境してつなげた人物の存在が想定されるかと思うのです。宗教の世界と文化の世界と政治の世界と実業の世界を、しっかり結びつけられた人がいたのです。日本会議の強さは、二つの組織を束ねたことで生まれたトータリティにあるのではないでしょうか。

そうした、強く全体的で包括的な組織を誕生させる第一のキーパーソンは、「日本を守る国民会議」の結成時から運営委員長、議長代行、議長を歴任した、作曲家の黛敏郎だったかと思うのです。

黛は、「日本を守る国民会議」の議長から日本会議の初代会長に就任する予定でしたが、発足直前にガンとの闘いの末に世を去ってしまいました。日本会議の設立大会は1997年5月30日ですけれども、黛が逝ったのは4月10日です。全部の段取りをつけて、統合前の「日本を守る国民会議」の最後の総会も同年3月20日にしきってから、亡くなりました。二つの組織の統合は、やはり黛なくしてはならなかったのではないでしょうか。その役割の大きさはあらためて注目されるべきだと考えます。

でも、日本会議を扱ったこれまでの書籍の中では、黛敏郎はあまり注目されていないようです。たとえば、菅野完さんの『日本会議の研究』(扶桑社新書)には黛敏郎の名前は一度も挙がっていないようです。青木理さんの『日本会議の正体』(平凡社新書)では何度か登場しますが、もっぱら「日本を守る国民会議」での活動が中心で、「日本を守る会」との関係は描かれていません。

朝日新聞の藤生明記者の『ドキュメント 日本会議』(ちくま新書)は例外で、黛敏郎の人柄で二つの組織がまとまったと述べられています。これはもうその通りかと思われますが、やはり人柄の前の段階で、黛敏郎がなぜ二つの組織にまたがって、土俵のかなり違うさまざまな人々の心を収攬(しゅうらん)できていたかが考察されなくてはなりますまい。

黛敏郎は、「日本を守る国民会議」の議長として、名ばかりではなく多分に実務的に寸暇を惜しんで組織を引っ張っていたのですから、名実共に同会議の指導者でした。彼は戦後日本の生んだ、クラシック音楽の代表的な作曲家のひとりです。

その作品は昭和30年代のうちに、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やニューヨーク・フィルハーモニックなどによって演奏されていました。武満徹に先駆ける大スターでした。レナード・バーンスタインをはじめとする名だたる指揮者が黛の音楽を取り上げ、代表作のレコードは欧米でも発売され、日本人として初めてハリウッド映画の音楽を担当し、ヨーロッパの一流歌劇場から新作の委嘱も受けました。ジョン・ヒューストン監督の『天地創造』(1966〈昭和41〉年)やベルリン・ドイツオペラの委嘱による三島由紀夫原作のオペラ《金閣寺》(1976〈昭和51〉年)がそうです。

おまけに演説をしても司会をしてもそつがない。テレビの音楽番組『題名のない音楽会』の司会者としてお茶の間にも長年知られ続けた人なのです。ちなみに『題名のない音楽会』は、出光興産の一社提供です。出光興産の創業者・出光佐三は反共主義者として著名な人物で、いわば彼が黛敏郎のスポンサーとなる形で『題名のない音楽会』を自由にやらせたのでしょう。

三島との友情の続きとしての愛国的・右翼的行動

そんな黛は、三島由紀夫とは戦後早くからの親密な友人でした。黛と三島は、映画や演劇や放送の仕事をたびたび一緒にしました。三島の台本と黛の音楽によるラジオ・ドラマ『ボクシング』は、その分野の古典的名作と呼べるものです。三島原作の映画だと谷口千吉監督の『潮騒』、市川崑監督の『炎上』、井上梅次監督の『黒蜥と か げ 蜴』などには黛が音楽をつけています。1959(昭和34)年の今上天皇(当時の皇太子)御成婚に際しては、NHKの委嘱で、三島の作詞、黛の作曲によるカンタータ《祝婚歌》が生まれてもいます。

もっとも三島と黛の蜜月時代はいったん終わります。1964(昭和39)年に三島のオリジナル台本に黛が作曲して日生劇場で初演される予定だったオペラ《美濃子》が黛の仕事の遅れによって流れてしまい、三島がそれに激怒して黛と絶交するのです。黛はその代償のつもりだったのか、ベルリンからの委嘱に応じて三島の小説『金閣寺』をオペラにしようとし、その許諾を黛が三島に直接とりつけたのが、二人が面と向かって会った最後でした。

それから三島は黛に何の相談もすることなく、クーデター未遂事件を起こし、切腹してしまった。黛はオペラ《金閣寺》を無事仕上げて傑作としたけれど、もう三島はいなかった。黛は三島のことで何らかの空虚をいつも抱え続けていたと思います。

1970(昭和45)年の三島事件のあと、黛の政治的・愛国的・右翼的行動は先鋭化していったと言ってよいでしょうが、それはすなわち、何か中途半端なところで絶えてしまった二人の友情の物語の続きを、黛がソロ・パフォーマンスでやり続けたことの現れのように思えなくもありません。

とにかく、そんな黛なのです。戦後初期から作曲家として圧倒的に輝き、それにふさわしいきらびやかな人脈も有していた。江藤淳も小堀桂一郎もまとめられるのが黛なのです。多くの文化人・芸術家の憧れの的が黛なのです。「日本を守る国民会議」が上手にまとまれていた所以でしょう。

しかも、黛は日本会議の初代会長に就任する予定でしたから、宗教右派の「日本を守る会」に対しても相当な求心力があったと推測されます。はて、その求心力の源は何なのか。黛はどうして仏教系や神道系の宗教界にも強かったのか。単に黛が有名人だから神道家や仏教者も一目置いたという話ではありません。もっと直接的なのです。実は黛敏郎の人生には、1960年代から80年代にかけて、音楽家として宗教界とつながりを強め、強固な信頼をかちえていった、深い経緯があるのです。

* * *

本書の刊行を記念して、12月22日(土)14時~、ベストセラー『永続敗戦論』『国体論』などの著書がある白井聡さんとの刊行記念イベントを行います。
詳細はこちらの幻冬舎大学講座案内からどうぞ。

※お申し込みはお電話・メールでも受け付けております。
電話 03-5411-6214 (平日11時~17時 担当:小林駿介)
メール yamamura@gentosha.co.jp(担当:山村)
当日・時間外のお問い合わせ 090-3876-2246(担当:山村)

白井聡『国体論 菊と星条旗』

いかにすれば日本は、自立した国、主体的に生きる国になりうるのか? 鍵を握るのは、天皇とアメリカ――。誰も書かなかった、日本の深層! 自発的な対米従属を、戦後七〇年あまり続ける、不思議の国・日本。 この呪縛の謎を解くカギは、「国体」にあった!  「戦前の国体=天皇」から「戦後の国体=アメリカ」へ。 気鋭の政治学者が、この国の深層を切り裂き、未来への扉を開く!

 

関連書籍

片山杜秀『平成精神史 天皇・災害・ナショナリズム』

度重なる自然災害によって国土は破壊され、資本主義の行き詰まりにより、国民はもはや経済成長の恩恵を享受できない。何のヴィジョンもない政治家が、己の利益のためだけに結託し、浅薄なナショナリズムを喧伝する――「平らかに成る」からは程遠かった平成を、今上天皇は自らのご意志によって終わらせた。この三〇年間に蔓延した、ニヒリズム、刹那主義という精神的退廃を、日本人は次の時代に乗り越えることができるのか。博覧強記の思想家が、政治・経済・社会・文化を縦横無尽に論じ切った平成論の決定版。

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片山杜秀

1963年、宮城県生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。思想史家、音楽評論家。慶應義塾大学法学部教授。専攻は近代政治思想史、政治文化論。『音盤考現学』『音盤博物誌』(ともにアルテスパブリッシング、吉田秀和賞とサントリー学芸賞受賞)、『未完のファシズム』(新潮選書、司馬遼太郎賞受賞)、『「五箇条の誓文」で解く日本史』(NHK出版新書)、『平成史』(佐藤優氏との共著、小学館)など著書多数

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