制約の中でしか生きられないからこそ「他者の眼」が必要
本書の章についても、すべてを読み切られてここにたどり着かれた方も多いだろうけれど、あとがきから読み始める方もいらっしゃるだろうと思うので一応内容に触れておきたいと思います。
戸谷さんは本書を「戦い」をテーマとした一冊としてとらえており、ビジネスにおいてすぐ役立つものではない、と書いています。しかし、できるならばそこにひと言付け足したい。この本はもしかしたらあなたの考えに一滴の清涼剤をもたらすかもしれません、と。
学生時代にはまず一人の哲学者を追いかけることが必要だという話をよく耳にしました。その意図するところは、私たちの持つ現代的な眼のみで物事をとらえるのではなく、その哲学者ならどう考えるか、その眼を持ちなさいということだったのではないかといまは考えています。
人間は自分の世界、状況の中で生きていかなければならない、という制約があるため、その中で生きる効率を最大限にするためかどうかはわかりませんが、どうしても自分の立場、イデオロギーなどの方向から物事や議論を見てしまうこととなります。
しかし、そこで仮に他者の立場やイデオロギーに立って、そこから物事を見つめ直すことができたならば、より視界が広がるのではないかと思います。
一円玉が貨幣制度のない国の人にとっては単なるアルミニウムであるにもかかわらず日本人にとっては単なるアルミニウム以上の意味を持つ物体であるように、物事は決して一面的などではなく、その人物の立場によって様々に移り変わるものです。自分の立場からではなくこういう見方もあるんだ、というようなひとつのサンプルとして本書を読んでいただければ幸いです。
対談においては、どうもしゃべっていると余計なことまで色々と話してしまいますので、各章に関して多少の解題を行ないます。
第一章では、「勝負論」をテーマとした議論になります。
「勝負」そのものは将棋の世界では非常にわかりやすく、一局一局について一対一の勝負となり、そして決着がつく。しかし、読者諸賢も(日頃から勝負続きの方もいらっしゃるかもしれませんが)長い目で見ればある種の「勝負」をしていると言えるでしょう。出世競争でしたり、受験競争でしたり、もしくは恋愛における競争といった色々な種類はあるかもしれませんが、人との比較や「勝負」なしに人生を歩むというのは非常に難しいものです。
そのことはもちろん「対人」の勝負を避け続ける戸谷さんにも言えることで、ある種の目的をもとにその人生を歩むのか、そうでないのか。ここではあえて「戦略」と「戦術」を使い分けていますが、このふたつはどちらも何らかの「勝負」に勝つ術としては同じものです――その「勝負」をどこに置くかという点においては(そしてそれが最大の問題ではありますが)非常に違うのですが。
たとえば、受験勉強においては、どこを受けるか、そしてその受験のためにどのような対策をするかということが「戦略」であり、実際の勉強、そして本番における受験への心構えなどが戦術です。「戦略」のほうが重要な位置にありますが、もちろん「戦術」も欠かしてはならないものです。
そしてこのふたつを見据えるうえで必要なのは、自然に人生を送る限り、何らかの目標、もしくは自分自身と「勝負」(もちろんほかの言い方で言い換えても構わない)しているのではないかという問題意識、自分が勝利する場所を見定めるということではないでしょうか。
第二章では、「人工知能」の話をしています。
現在様々なところで人工知能は人間の能力を上回っています。それは将棋であったり、計算であったり、もしくは哲学もいずれそうなるのかもしれません。人間が人工知能に(将来的にも)勝る、もしくは有する特権的な「何か」は果たしてあるのでしょうか?
自我、心、意識などは人間および動物にしかないものだという言説はいまだに力を持っています。そしてまた実際の心情で言えば、私はそうした特権的な能力が人間にあってほしいと願っていましたし、生─死は人間にしかないものだと声高らかに言えるのではないかと思っていました。
しかしそれは現状単なる願いにしか見えません。人間が昔は人工知能に追いつかれないと自信を持って断言できていたこと、70年前なら断言できたであろうことの多くは、いままさに追いつかれかけている、そしてまた追い越されたものです。
はたしていま特権として残されている機能はそれらの仲間ではないと、大手を振って主張できるでしょうか?
戸谷さんが人間の特権として守ろうとしたいところは理解できます。しかしそれははたして50年後、もしくは100年後にも言えることなのでしょうか?
第三章では、「哲学」と「社会」という、つながっているようであまりつながっていないものをテーマにしています。
戸谷さんの専門である、そして私も学んでいた哲学を皮切りに、様々な問題を読み解こうとしています。
実際の社会は哲学がよく問題とする抽象的な事象よりもさらに多くの問題を孕んでいるものです。卑近な問題でも、自分に関係ない問題であれば公平に考えることができることが多いですが、自分に深く関係する問題ではなかなかそうはいきません。ただそれでも、自身の立場を離れて考えるということは一定の意味を持つと思います。
第四章では、世代論を取り扱っています。
昭和63年生まれの私たちは、平成最後の年を丁度30歳で迎えます。段々と社会の中核へと近づいていく年代になり、平成とともに青春が終わろうとしています。
不景気なのか好景気なのかも判断のつかない、未来の成長を信じることも難しいわれわれの世代が、幸福に生きるにはどうしたらよいのか、昔からの哲学のテーマである「よりよく生きる」ではないですが、満足のいくように生きるにはどうしたらよいのかということを考えてきました。
私たちの対話はまだまだ未熟なものですが、皆さまへの多少のヒントとなればと考えます。
ここまで読んでくださった読者諸賢、長々とありがとうございました。御多忙の中、快く推薦文を引き受けてくださった同期の佐藤天彦名人、そして出版にかかわってくださった皆様、ありがとうございます。
そして本書を手にとられたばかりの方、もしくはあとがきから読み始めた方、最後まで読まなくても大丈夫ですので、本書が何かひとつでも役立つことがあれば幸いです。
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試し読みは今回で終了です。ご興味を持たれたかたは、ぜひ『僕らの哲学的対話 棋士と哲学者』(イースト・プレス)をお読みいただけると幸いです。
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