東日本大震災から丸9年。地震・津波の多大な被害に加え、私たちの暮らしを大きく変えた原発事故。あの危機に政府はどう対応したのか。起きたことをつまびらかに記した『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』(菅直人著、2012年10月刊)から、一部を抜粋してお届けします。
※写真はWEB用で書籍には入っていません
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序章 ――覚悟
大震災と原発事故から一年半が経過した現在でも、最初の一週間の厳しい状況が頭に浮かぶ。
大震災発生の三月一一日から一週間、私は官邸で寝泊まりし、ひとりの時は総理執務室の奥にある応接室のソファーで防災服を着たまま仮眠をとっていた。仮眠といっても、身体を横にして休めているだけで、頭は冴えわたり、地震・津波への対処、そして原発事故がどこまで拡大するか、どうしたら拡大を阻止できるのかを必死で考えていた。熟睡できた記憶はない。
チェルノブイリ原発事故と東海村JCO臨界事故
震災については、一九九五年の阪神・淡路大震災の記憶が鮮明で、初動の重要性を考え、まず自衛隊の出動を急いだ。
原発事故に直接遭遇したのは、もちろん初めての経験だった。原発事故の怖さは、チェルノブイリ事故が起きてしばらくして事故報告書を読み、ある程度理解していた。しかしそれがまさか日本で起こるとは考えていなかった。
ソ連(当時)のチェルノブイリ原発事故は、日本とは違う黒鉛炉と呼ばれる古い型の原子炉で起きており、操作ミスが重なり、核反応が暴走して爆発し、大量の放射性物質が放出された。当時は、原子炉も旧式で、ソ連の技術レベルが十分でないために起きた事故と理解していた。日本は世界でもトップレベルの原発技術を擁しており、技術者も優秀で、日本の原発でチェルノブイリのような事故は起きるはずはないと信じていた。
しかしこれは原子力ムラの作った原子力の安全神話であったことを、いやというほど思い知らされることになった。
これまで日本で起きた最大の原子力事故は、一九九九年の東海村JCO臨界事故だった。核燃料を扱う会社のずさんな管理から生じた臨界事故で、二人の作業員が被曝によって亡くなった。
当時、私は関心を持って詳しく調べたが、人為的なミスから生じた事故で、大きな原発事故につながるような事故とは認識しなかった。今考えると、人間はミスを犯すものであり、それを前提に原発事故に備えなくてはならないという教訓を生かせなかったことを反省している。
福島原発事故
私は東京工業大学で応用物理を専攻した。原子力については、学生時代に学んだ基本的な知識がある程度で、原子炉を設計したりしたことはなく、原子力の専門家ではない。しかし、文系出身の政治家よりは多少の「土地勘」があり、原発事故の状況を把握する上で役立った。
福島原発に関しては、地震発生後間もなく、自動緊急停止装置が働き、すべての原発が停止したという報告があった。それを聞いて、ほっとしたのを覚えている。しかしその後、津波の襲来とともに、全電源の喪失、さらに、冷却機能停止の報告が届いた。私は顔がひきつるような衝撃を受けた。原発は停止後も冷却を続けなければメルトダウン(炉心溶融)を引き起こすことを知っていたからだ。
私は、今回の事故まで、福島原発の現場に行ったことはなかった。事故発生直後、秘書官に調べさせると、福島第一原発には、六基の原発と七つの使用済み核燃料プールがあり、さらに一二キロほど離れた第二原発にも四基の原発と四つの燃料プールがあった。発電容量は第一原発の六基で四六九・六万キロワット、第二原発の四基で四四〇万キロワット、合計して九〇九・六万キロワットとなる。チェルノブイリ原発の一号から四号までを合わせた発電容量は三八〇万キロワットなので、その約二・四倍だが、チェルノブイリで事故を起こしたのは四号炉だけなので、福島第一と第二原発の核燃料や核廃棄物の量はチェルノブイリ四号炉の何十倍という量になる。
私は、福島県に東京電力の原発がこれほど集中して設置されていたことに改めて驚き、もしこれらの原発が制御不能になったらどうなるかを考え、背筋が寒くなった。そしてそのことは現実となった。
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※次回「初動」は3/15公開予定です
東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと
「冷却機能停止」の報せから拡大の一途をたどった原発事故。有事に対応できない構造的諸問題が露呈する中、首相として何をどう決断したか。歴史的証言。