医学的・歴史的資料をもとに、人類がウィルスといかに闘い、打ち勝ってきたかを明らかにする『世界史を変えたパンデミック』(小長谷正明氏著、幻冬舎新書)が発売即重版と反響を呼んでいる。
今回は「天然痘を武器にした者、制圧した者」を抜粋して紹介する。
アメリカ新大陸を発見した冒険者たちによって、新大陸には疫病が持ち込まれてしまった。当初は無自覚だっただろう旧大陸の人間は、その事実に気づき、疫病を利用するようになる。
* * *
伝染病で新大陸の億単位の人が死亡
スペイン人のデ・ソトの遠征軍が北アメリカに侵入した直後の1540年頃、内陸のミシシッピ川流域には、ネイティヴの集落がたくさんあり、スペイン人たちを撃退した。
だが20年後にはだれもいない集落跡ばかりで、あっても小さなものだけだったという。
デ・ソトがもたらした天然痘がミシシッピ社会を崩壊させたのだ。
天然痘流行は北米大陸全般でみられ、白人到着前、ネイティヴの人口は2000万人以上だったといわれているが、20世紀はじめには25万人に減少してしまった。
おなじようなことが南米や中米でも起こっていた。
その後も、これらの地域では疫病がくりかえし流行し、億単位の人々が死んでしまっていた。
免疫などの抵抗力のない新世界の先住民に、ヨーロッパなどの旧大陸の天然痘をはじめ、麻疹や結核、チフス、赤痢、それにアフリカから持ち込まれたマラリアや黄熱病がおそいかかったのだ。
伊達政宗の独眼竜も天然痘の後遺症
旧大陸からの疫病でもっとも深刻だったのは、伝染性、経過、致死率、むごたらしさからして天然痘である。
ヨーロッパやアジアでは、天然痘は古代から流行しており、紀元前12世紀のエジプトのファラオ、ラメセス5世のミイラにはアバタ(痘痕、とうこん)がのこっている。
病原体はラクダに由来するDNAウィルスで、12日くらいの潜伏期のあと、高熱、頭痛、筋肉痛などで急激に発症する。
2、3日して顔や手足に発疹があらわれ、やがて膿疱(のうほう、膿の水疱)に変わっていくが、重症例ではけいれんが起きたり、皮ふや体内で出血して亡くなってしまう。
天然痘の致死率は高く、地域差、時代差はあるが20~50%であり、18世紀ヨーロッパでは全死亡者の10~15%を占め、天然痘の犠牲者の80%が子どもであったという。
日本の七五三の風習も、赤ん坊が天然痘や麻疹などの感染症を無事きりぬけて成長したことを祝ったのがもとだともいう。
後遺症で深刻だったのは、眼の角膜の損傷である。伊達政宗の独眼竜はそのためである。
かつては、失明のいちばんの原因は天然痘だったともいわれている。
そのせいでネイティヴ・アメリカンは病気を生きのびても狩猟・採集の生活ができなかったので、人口は激減したともいう。
乳しぼりの娘が天然痘にかからないわけ
1803年11月、スペインの港町からマリア・ピタ号が出帆した。
指揮官はフランシスコ・ザビエル・バルミス(Francisco Xavier Balmis)。戦国時代に日本に来たイエズス会の宣教師とは別人で、医師である。
国王カルロス4世からあたえられた使命は、つい最近、イギリスのエドワード・ジェンナーによっておこなわれた種痘を、中南米の植民地の人々にほどこすことだった。
時のスペイン国王カルロス4世は、善人だが統治能力はいまいち以下だった。
優柔不断で王室をまとめきれずに国難をもたらしたとさんざんな評価だ。
が、この王様は医学の歴史では、語りつがれるべきキャンペーンをプロモートした人物として記憶されている。
開業医であるジェンナーが牛痘による種痘を思いついたのは、牛の乳しぼりの娘たちは手に軽い膿疱をつくると、天然痘が流行してもかからないことに気がついたからだ。
1796年に、まずは小作人の息子に、牛の膿疱の膿を植えつける種痘(牛痘接種)をおこない、効果を確認してから自分の息子にもほどこした。
1798年に論文を発表したところ、発症者もほとんどなく予防効果があるとして、あっというまにイギリスのみならずヨーロッパ中にひろまった。
牛の皮ふに膿疱をつくるウィルスは、外側のカプセルの部分は天然痘ウィルスとおなじだが、病原性は弱い。
つまり弱毒ウィルスなので、それを感染させて、カプセルに対する抗体ができれば、天然痘ウィルスが体内に侵入してきても排除できて、発症しないというわけだ。
種痘をわが子に受けさせたカルロス4世はその効果に感動し、ひらめいた。
新大陸における自分の帝国では天然痘が猖獗(しょうけつ)をきわめている。かつて、スペインの冒険者たちが征服した中南米の地である。
そこの臣民にも種痘のご利益をさずけるのだ、と。
そうしてフランシスコ・ザビエル・バルミスが呼び出された。
世界一周種痘の旅
11月、バルミスはマリア・ピタ号に乗船してスペインをあとにした。
当然、現地で種痘するための痘苗もたずさえていくのだが、今日のように製剤化はできず、生きている牛痘ウィルスが消失しないようにつないでいく(継代)必要がある。
そこで天然痘にかかったことがない孤児たちが集められた。
まず、出帆直前に最初の子どもの腕に牛痘が接種され、10日ほどしてその子の膿を次の子に接種するというぐあいにくり返した。
不測の事態をさけるために、一度に2人の子どもに接種しながら、アクティヴな痘苗を継代していった。
翌年2月、カリブ海のプエルトリコに到着し、3月には南米のベネズエラに渡った。
かの地では、たくさんの子どもたちの命をうばい去ってしまう疫病から解放する“王様のおくりもの”として大歓迎された。
ここで一行は二手にわかれ、副隊長のサルバニは、南米をアンデス山脈ぞいに進み、各地で何万人もの種痘をくり返していった。
ペルーでの実績は19万7000人にのぼる。
まさに難行苦行のミッションであり、サルバニは何度も熱病にかかり、1810年に34歳の若さでコロンビアの土となってしまった。
一方、バルミスはまた船に乗り、おなじように痘苗を継代しながらメキシコに向かった。
メキシコではさらに4歳から6歳の孤児を26人あつめ、1805年2月5日にアカプルコを出発して太平洋を横断し、5月16日にはフィリピンのマニラに到着した。
中国に渡り、マカオや広東でも種痘をしている。
1806年9月7日、バルミスはインド洋を横断してアフリカ南端の喜望峰をまわってマドリードにもどった。
孤児たちのうでに牛痘を継代しながら、種痘キャンペーンで世界を一周したのである。
ネイティブ・アメリカンへのバイオテロ
1763年、アメリカ独立戦争に先だつフレンチ・インディアン戦争は、フランスとネイティヴ・アメリカンの同盟軍と、イギリス軍が戦った植民地戦争であったが、イギリス軍は天然痘病院から取りよせた毛布とハンカチーフを諸部族に配った。
さらに独立戦争でも、ワシントンのひきいる植民地軍にもおなじ手を使ったという。イギリス人は人痘法で免疫をつけていた。
また、19世紀になっても、アメリカの西部では、森のなかに天然痘や麻疹の患者が使っていた毛布や衣類を置いておき、ネイティヴが拾って使うようにしむけていた。
今日でいう細菌戦、バイオテロである。
1979年にWHOは天然痘根絶を宣言したが、今なお国際危機や紛争のたびに、天然痘ウィルスを使った生物兵器の存在がささやかれている。日本周辺にも疑われている国がある。
種痘をしなくなった人類には、天然痘への抵抗力は皆無であり、使われると、新型コロナウィルスなどとは比較にならない破壊力でパンデミックとなってしまう。
なお、天然痘ワクチンは備蓄されているという。
・Halverson MS: Native American Beliefs and Medical Treatments During the Smallpox Epidemics: an Evolution. Archiving Early America, 2007
・グレッグ・オブライエン著、阿部珠理訳『アメリカ・インディアンの歴史』東洋書林、2010年
・K・F・カイプル編、酒井シズ監訳『疾患別医学史II』朝倉書店、2006年
・加藤茂孝著『人類と感染症の歴史─未知なる恐怖を超えて─』丸善書店、2013年
・Tarrago RE: The Balmis-Salvany Smallpox Expedition. Perspectives in Health 2001: vol6
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