三大陸をまたにかけ、一時はヨーロッパを飲み込もうとしていた大国、オスマン帝国。
世界史上稀に見る、600年もの繁栄を誇ったこの国の強さとはどこからくるのでしょうか。
意外なことに、オスマン帝国の強さの理由は、多民族、多宗教を受け入れ、女性や文化人も活躍できた、人々の「多様性の尊重」にありました。
話題の新書『オスマン帝国 英傑列伝』では、国を支えた最も魅力的な10人の多種多様な人生を通して、建国から滅亡までの波乱万丈の歴史を読み解きます。本書より、オスマン帝国史上初、奴隷出身でありながらスレイマンの后へと昇りつめた女性「ヒュッレム」の人物伝を一部抜粋してご紹介します。
帝国史上初、スレイマンと奴隷の正式な結婚
一五三四年三月にハフサが亡くなると、きわどい均衡を保っていた宮廷内のパワー・バランスは大きく崩れる。この年から数年のうちに起こった三つの出来事が、ハフサに代わるハレムの支配者として、ヒュッレムの権勢を大いに強めるのである。
ひとつめは、スレイマンとヒュッレムの結婚である。母の死の数か月後、スレイマンはヒュッレムと正式な婚姻関係を結ぶ。
オスマン帝国のスルタンたちは、一五世紀までは、近隣諸国の王族と政略結婚をすることがあった。しかし、ハレムの女奴隷と正式に結婚した例は皆無であった。こうした慣例に反し、スレイマンは、ヒュッレムを奴隷身分から解放したうえで、正式に結婚したのだった。これは、オスマン帝国の歴史上、はじめての出来事である。
オスマン帝国側の記録は、この結婚について沈黙している。前代未聞の王族のスキャンダルについて、帝国の年代記作家たちの当惑が伝わるようである。スレイマン治世末期にオスマン帝国を訪れていた、ハプスブルク帝国の大使ビュスベクは、ヒュッレムが「結婚しなければ、褥(しとね)をともにしない」とスレイマンに迫ったという巷説(こうせつ)を伝えているが、信憑性はどうだろうか。
ふたつめは、マヒデヴランがハレムを去ったことである。
同年、一八歳となったムスタファ王子が太守としてマニサに赴任すると、マヒデヴランも息子とともにハレムを去った。
後代の年代記によれば、ヒュッレムとマヒデヴランが取っ組み合いの喧嘩をして、マヒデヴランがヒュッレムの髪を引っ張り顔を搔きむしったために、怒ったスレイマンがマヒデヴランを追いやったという。しかし、王子が任地に母をともなうというのはそれまでのオスマン帝国の慣行であるから、前述の記録は信憑性の怪しいゴシップのたぐいであるようだ。
ただし、王子がいつ太守としてハレムを離れるかに明確なきまりはないため、この年にムスタファとマヒデヴランがイスタンブルを去ることになったこと自体に、スレイマンやヒュッレムの思惑があった可能性はあるだろう。
一方のヒュッレムはといえば、自身の子であるメフメト王子らが地方に赴任したさいも、ハレムにとどまっている。スレイマンは彼女のため、トプカプ宮殿を増築し、そこに住まわせすらしたのである。
イブラヒムの処刑はなぜ行われたのか
そして三つめは、スレイマンの股肱(ここう)の臣であった大宰相イブラヒムの処刑である。
サファヴィー朝への遠征が終わって間もない一五三六年三月、スレイマンの右腕として一二年以上にわたり大宰相を務めてきたイブラヒムが処刑される。
ヴェネツィア居留民の出身であるイブラヒムは、奴隷としてスレイマン王子に献上されて以来、長きにわたり腹心として仕えてきた。
イブラヒムは、一説にはスレイマンの妹と結婚したといわれているが、これについては古くから疑義が呈されており、近年もこの説を批判する論文が著されている。王妹との婚姻を記す同時代史料が存在しないことからも、やはり事実ではなかったとみなせよう。
しかし、イブラヒムがスレイマンの寵愛をほしいままにし、イスタンブルの中心部に邸宅を構えて権勢をふるったのは確かである。スレイマンの分身ともいえる彼の突然の処刑に、オスマン帝国の人々は驚愕した。
なぜイブラヒムが処刑されたのかについて、定説はない。イブラヒムがみずからの称号に「スルタン」の語を帯びるほど増長していたことが、スレイマンの勘気に触れたともいわれる。
処刑の理由としてもっとも人口に膾炙(かいしゃ)しているのは、ヒュッレムの陰謀だというものである。イブラヒムは、マヒデヴランの息子にして最年長の王子であるムスタファを支持していた。そのため、実子の即位を願うヒュッレムが、イブラヒムを陥れたのだという。とはいえ、この説に明確な証拠があるわけではない。
若き日のスレイマンとイブラヒムが、恋愛関係にあったことはまず間違いない。君主と小姓のあいだの愛情は、同性愛を戒めるイスラム教のきまりにもかかわらず、イスラム世界において珍しいことではなかった。しかし、辻大地の研究が示すように、男性同士の性的関係は、一方が少年であるあいだに限られており、成人男性同士の性的関係は、やはり忌避されるものだった。だから、長じてのちのふたりの関係は、なお特別な紐帯で結ばれていたとしても、徐々に変質していったはずである。
イブラヒムは、かつての「恋人」であったスレイマンとのあいだに生じた亀裂に気づかず、ヒュッレムの策謀がつけいる隙を与えたのかもしれない──しかし、これはただの推測である。
王妃としての存在感を発揮
こうして宮廷の権力者として君臨することに成功したヒュッレムは、ミフリマー王女、そしてその夫である大宰相リュステム・パシャと党派を作り上げ、その存在感を大いに示した。
リュステムは、ミフリマーと親子ほども歳の離れた、強欲で評判の悪い人物であった。ミフリマーは当初、彼との結婚を嫌がったという。
しかしヒュッレムの目に狂いはなかった。
リュステムは、征服活動の停滞したスレイマン治世後半にあって、経済活動でその才覚をいかんなく発揮したのである。彼が建築させた、イスタンブルのエジプシャン・バザール付近にあるリュステム・パシャ・モスクは、ふんだんにイズニク・タイルが用いられた贅沢な内装を持ち、イスタンブル観光に欠かせない名所となっている。
ヒュッレムは、イスタンブルに大規模な宗教寄進ワクフを行い、モスクや商業施設を建設させている。これまでも、王族の女性が地方都市において宗教寄進を行った例はあったが、イスタンブルにこれほどの規模の施設を造らせたのは彼女がはじめてである。
とくに有名なのは、ファーティフ地区に建築させた、モスク・病院・学院など一連の複合施設である。のちにここは、ヒュッレムにちなんで「ハセキ」(とくに寵愛された妃が用いた称号)として知られるようになった。また、アヤ・ソフィア・モスクとスルタン・アフメト・モスクのあいだに建てられた大きな公衆浴場ハマムも彼女の寄進により建てられたもので、修復の済んだ現在、観光客が入浴することもできる。
ヒュッレムのみならず、ミフリマー王女も積極的に宗教寄進を行っている。ヒュッレム、ミフリマー、そしてリュステムのもとでは、名建築家として知られるミマール・スィナンがその卓越した技をいかんなくふるった。
彼女の活躍は国内だけではなかった。
ヒュッレムは、ポーランド王ジグムント一世(位一五〇六~一五四八年)の王妃ボナ・スフォルツァや、彼女の娘でハンガリー王妃となったイザベラ・ヤギェロンカと、書簡を取り交わしている。ボナは強烈な反ハプスブルク派であり、そのためオスマン帝国の支援を求めてヒュッレムと友誼を結んだのであった。また、当時のハンガリーはオスマン帝国の宗主権下にあり、反ハプスブルク派のサポヤイ・ヤーノシュが国王であった。いうなれば、ハプスブルク家に対抗するために、ポーランド、ハンガリー、そしてオスマン王家の女性たちが、非公式のネットワークをもってやりとりをしていたのである。
一六世紀後半は、オスマン帝国の東西で王妃・王女が活躍した時代でもあった。
オスマン帝国の同盟国であったフランスでは、メディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスが、王妃そして母后として大きな力をふるっていたし、そのさらに西、イギリスにおいてエリザベス女王(一世。位一五五八~一六〇三年)が活躍するのは、ヒュッレムよりわずかにあとの時代である。また、東方の隣国たるイランのサファヴィー朝においても、パリー・ハーン・ハーヌムという王女が、父タフマースブ一世(位一五二四~一五七六年)の治世末期から兄イスマーイール二世(位一五七六~一五七七年)の治世にかけて、隠然たる支配者として権力を握っていた。
こうした王妃・王女たちのなかにあって、オスマン帝国という大国の王妃たるヒュッレムは、当時の世界でもっとも存在感を持つ女性のひとりであっただろう。
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