「あんなぞんざいな言葉遣いをする人間には任せられない」
誰かの言葉を聞いてそう思ったことはありませんか?
逆に、誰かにそう思われているかも?
言葉にはこれまで培ってきた知性、教養、品性、性格、考え方が宿ります。言葉の感覚を磨く、すなわち「語感力」を鍛えるのは、ビジネスでも必須の要素。『この一言で「YES」を引き出す格上の日本語』より、語感力を鍛えるための言葉の知識を抜粋してご紹介します。
茶柱が立つのは幸福の前兆?予兆?
先日、ある旅館に泊まったら、仲居さんがお茶を淹れながら言うのです。「今日はいいことがありますよ」。
いいことがあると言われて悪い気はしませんが、やっぱり、「どうしてですか?」とその理由を訊きたくなります。
「茶柱が立っていますから!」と、仲居さんはすぐに答えてくれました。
茶柱が立つといいことがあるという迷信は、江戸後期、駿河の茶商が二番茶を売るのに使った宣伝文句に由来すると言われます。とはいえ、お茶を淹れて茶柱が立つ確率は科学的にもかなり低いらしく、それならばいいことが起こるような予感がしても、あながち間違いではないと思います。
さて、茶柱は別にしても、なにかの前触れを言う言葉に「前兆」と「予兆」という言葉があります。
どんなふうに違うのでしょうか?
その説明をするために、まず「兆」がどういう意味の漢字なのかについて触れておきましょう。
「兆」は、紀元前1500年頃の中国、殷王朝の時代に行われた占いの時に作られた漢字です。
殷王朝では、明日の天気、狩りの結果など様々なことを占いで調べました。その方法は、亀の甲羅や牛の肩甲骨に、占いたい内容を文字として彫りつけ、その上に、焼いた火箸を押しつけるというものでした。
神官は、それによってできる甲羅や骨の割れ具合によって、吉凶を判断するのです。
「うらない」を表す「卜」という漢字は、この割れ方に由来すると言われますが、「兆」も同じなのです。
これは火箸を入れた時に、四方八方にヒビ割れが起こった状態を示しています。そう言われると、なんとなく、そんなふうにも見えてきませんか?
ですから「前兆」「予兆」という言葉には、じつは、占い的な、「当たるか当たらないか分からないけど、なんとなく現れる吉凶の兆し」を示唆する意味が含まれているのです。
それでは、「前兆」と「予兆」とでは、どんな違いがあるのでしょうか。
これは、「前兆」がなんらの根拠がない「吉凶の兆し」であるのに対し、「予兆」は、何らかの根拠が、薄いながらもあることです。
「予」は、「あらかじめ」と読みます。また「予」は、旧字体では「豫」と書きますが、これは「大きな現象」を表します。
「予兆」は、すでに過去に起こった現象や、あらかじめ占いで出た結果などに基づいて知られる起こるべき大きな現象を表す言葉なのです。
ところで、「前兆」とは、だいたい、大地震など自然災害が起こった後に使われる言葉ではないでしょうか。
「海辺にイルカが大量に打ち上げられたのは、あの地震の前兆だったのではないだろうか」と言ったりします。
十五世紀の初頭に書かれた『三国伝記』という本には、「諸葛亮が病によって亡くなる前兆に、東北から西南に流れる大流星があった」と書かれた文章があります。
これらは、なにか現象が起きたとき、その現象とは本来無関係であるものとを因果関係として結びつけるような場合に使われます(もちろん、海辺に大量のイルカが打ち上げられることと地震には、何か大きな関係があるかもしれないのですが、まだそれは科学的に明らかにされていません)。
ところで、「前兆」「予兆」は、「前徴」「予徴」と書くこともできます。
この場合の「徴」は、「しるし」と訓読みされ、「兆し」と同じ意味を表しますし、「兆」と発音が同じことから、どちらも使われるようになりました。別に意味の上での違いはありません。
さて、それでは「茶柱」を「いいことが起こるであろう」ということを示すときに使うのは、「前兆」と「予兆」どちらでしょうか?
もちろん、これは「前兆」でしょう。漱石も、『行人』で、「茶碗の中に立ってゐる茶柱を、何かの前徴の如く見詰めたぎり」と書いています。
この一言で「YES」を引き出す格上の日本語
「あんなぞんざいな言葉遣いをする人間には任せられない」
誰かの言葉を聞いてそう思ったことはありませんか?
逆に、誰かにそう思われているかも?
言葉にはこれまで培ってきた知性、教養、品性、性格、考え方が宿ります。言葉の感覚を磨く、すなわち「語感力」を鍛えるのは、ビジネスでも必須の要素。『この一言で「YES」を引き出す格上の日本語』より、語感力を鍛えるための言葉の使い分けを抜粋してご紹介します。