(撮影:齋藤陽道)
何年か前、当時店によく来ていた大学生の男の子が、彼にしてはめずらしい平日の夕方、ふらり店までやって来たことがあった。
「今日、卒業式だったんです」
そういえばスーツを着ていると、先ほどから思っていた。
今日というハレの日を、彼は誰かと一緒に過ごさないのだろうか? いや、彼も薄々は気がついていたのかもしれない。たとえ〈卒業〉したとしても、その瞬間を見れば変わらないことのほうが多いのだと……。その時わたしは、自分に起こったことを思い出していた。
——じゃあ、みんながんばってね。
担任だったA先生の挨拶を最後に、わたしの高校生活は終了した。ほかのクラスもホームルームが終わったのか、生徒たちが三々五々、次々と廊下へ吐き出されていく。
みんなはこれからどうするのだろう。
少しその場で待ってみたが、何かが変わる様子はなく、みな仲のよい友だちと一緒に帰っていく。
廊下には、気心の知れたいつものメンバーがいた。彼らと少し話したあと、帰り道が同じ方向の人同士なんとなく別れて、じゃあまた会おうねと、それぞれの通学路を帰っていった……。
あれ? これっていつもと同じだよね?
卒業式だからといって、特別なロマンスや熱い友情物語は起こらないのだ。家に帰ると母が待っていて、「おめでとう」と言ったあと、用意していたちらし寿司を出してくれた。母には悪いが「そんなものか」と、正直いってがっかりとした。
〈解散〉してもそれぞれの人生は続く。浪人が決まっていたわたしの一日は、その日から長くてずっしりとしたものへと変わった。学校には行かなくてもよくなったが、毎日はいつもそこにあって、時間というのは重たいものだとその時はじめて思い知った。
何もすることがないので外に出たある日、同じクラスの I と街で偶然出会った。彼の私服姿を見たのははじめてだったが、思ったより派手で、筋トレ好きの胸板の厚い体には赤い上着が少しきつそうだ。その時彼は、わたしも顔は知っていたが話をしたことはなかった別のクラスの子と一緒にいた。春から彼らは、地元の大学に進むことになっていたのだ。
三人で喫茶店に行き、ビリヤードを何ゲームかしたあと、二人は坂を上ったところにあるバーに行くといった。
「いっしょに行かへん?」
そのように誘われたけど、なんとなく気後れがして、その時は家に帰った。家に帰るとやはり母がいて、いつものように晩ごはんを出してくれた。
その I だが、世のなかがコロナ一色に変わった2020年の冬、どうしたことか突然店まで来てくれたことがある。彼の姿をfacebookで見かけることは時たまあったが(家族で旅行に行った、仕事先の人と肉を食べに行った、等々)、実際に会うのはあの日を最後に30年ぶり。相変わらずがっしりした体つきをしていたが、お互いマスクもしていたので、「よぉ」と言われてもはじめは誰だかわからなかった。
「転勤で少しのあいだ関東に来てるけど、こんな状況でこれからどうなるかまだわからへんねん……」。彼は大阪に本社がある商社に勤めていたが、その会社ではある年齢まで達すると、そこから昇進できる人以外は、身の振り方を自分で考えなければならないのだという。
店をやっていると、I に限らず昔の知り合いが来てくれることがあるが、彼や彼女がうまくいっているか、いまの自分に満足しているかは、その物腰や含羞から大体伝わってくる。それからいうと I は彼のキャラクターには似合わず、何かあきらめることでもあったのか、心に小さな隙間があるように見えた。
負けない人などいないのだ。
わたしからすれば体育会系を絵に描いたような I であったが、話しているあいだの彼は、目のまえで見る見るうちにしぼんでしまった人のように見えた。
「今度また飲みに行こな」
しかし、時節柄その約束は果たされず、その半年後 I はまた関西に戻り、タイミングが悪かったといえばそれまでなのだが、結局わたしは彼の誘いを二度も断ったことになってしまった。
その瞬間だけを見れば変わらないように見えても、長い時間のあいだには、わたしたちはそれぞれの道をいつの間にか遠くまで歩んでいる。だからある瞬間だけを切り取って、ことさらそれに期待したり、必要以上に落ち込む必要はないのだろう。わたしたちはみな、長距離走を走るランナーなのだから。
SNSで見る I の姿は、その後も変わらず楽しそうだ。いつも誰かと写真に収まるその屈託のない表情の方が、わたしの店にいたときよりもよほど彼らしく見える。
今回のおすすめ本
『おばけのこ』テルヒ・エーケボム 稲垣美晴訳 求龍堂
人里離れた森に暮らす女性は、そこで出会った「おばけのこ」に、自らの淋しい魂を癒された。ゆっくりと回復していく時間を描いた、北欧のチャーミングな物語。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2024年5月10日(金)~ 2024年5月28日(火)Title2階ギャラリー
キッチンミノル出版記念写真展「ひこうきがとぶまえに」
~航空整備士の仕事~
しゃしん絵本作家のキッチンミノルが出版社を立ち上げました。第一作目は、飛行機が格納庫に帰ってきてから、再び空に飛びたつまでの航空整備士さんの仕事を、JAL全面協力の元、キッチンミノルが温度感ある写真と文章追いかけたしゃしん絵本『ひこうきがとぶまえに』です。紙面では航空整備士の仕事や見たことない機器、機械類がページいっぱいに広がります。
今回は絵本の中の写真や惜しくも絵本には収めることができなかった写真を展示します。写真だからこそ伝わる迫力! 緻密さ!! 臨場感!!! 子どもだけでなく、大人も一緒に楽しめます。
◯【店主・辻山による<日本の「地の塩」を巡る旅>書籍化のお知らせ】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」がとうとう書籍化! 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Title予約サイト
◯【書評】
『涙にも国籍はあるのでしょうか―津波で亡くなった外国人をたどって―』(新潮社)[評]辻山良雄
ーー震災で3人の子供を失い、絶望した男性の心を救った米国人女性の遺志 津波で亡くなった外国人と日本人の絆を取材した一冊
◯【お知らせ】
店主・辻山の新連載が新たにスタート!! 本、そして読書という行為を通して自分を問い直す──いくつになっても自分をアップデートしていける手段としての「読書」を掘り下げる企画です。三ヶ月に1回更新。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。
毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。4月16日(日)から待望のスタート。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
本屋の時間の記事をもっと読む
本屋の時間
東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。