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逆転正義

2023.08.26 公開 ポスト

コンビニ前で佇む制服姿の彼女を放っておけない - オチまで全文公開!ミステリ短編「保護」 ~下村敦史『逆転正義』より下村敦史(作家)

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春子は濡れたセーラー服を気にしつつ、靴を脱いで部屋に上がった。

ベッドの上に少年漫画のコミックスが散乱していた。半裸の美少女がほほ笑んでいるような表紙が多い。ライトノベルが原作だろうか。

満雄が慌ててコミックスを搔き集め、片隅に置かれている小型の本棚に突っ込んだ。

何げなく見ると、絨毯に一冊だけ成人誌が放置されていた。卑猥なキャッチコピーがあふれている。

「あっ……」

思わず声を漏らすと、それに反応して彼が振り返った。春子の視線の先を見て慌てふためき、成人誌をベッドの下に蹴り込んだ。額の汗を拭いながら向き直る。

「これは……」

目が泳いでいる。

春子は苦笑いしながらフォローした。

「そういう本を見るの、男なら普通だと思うし……。私は別に気にしてないから」

彼に下心などはなく、純粋に心配して声をかけてくれたのだと分かっている。男の性欲を目の当たりにしたからといって、不安は抱かなかった。むしろ、誰もが見なかったかのように素通りする中、気遣ってくれたことに感謝している。

満雄は円形の座卓に置かれているカップ焼きそばの空とお茶のペットボトルを取り上げ、ごみ箱に捨てた。

「ごめん、散らかってて──」

「ううん」春子はかぶりを振った。「全然」

「恥ずかしいな、少し」

満雄は頬を搔きながら、絨毯に落ちている紙袋やチラシなどを片付けた。

「気にしないで」

「ごめん」

片付け終えると、満雄が春子に顔を向けた。だが、気まずそうにすぐ目を逸らした。

その理由はすぐ分かった。

濡れそぼったセーラー服が下着を透けさせており、肌に貼りついている。

「そのままじゃ風邪引くし……」満雄はぼそぼそと喋った。「お風呂とか……」

春子は彼の横顔を見つめた。

視線は感じているはずだが、彼は目を合わせないようにしていた。

実際、軒先に突っ立っているときから寒気を感じていた。

コンビニの店内で時間を潰すことも考えたが、商品を購入しようともしない姿を怪しまれ、迷惑そうな眼差しを受けたので、すぐ出てしまった。

「でも、着替えが……」

春子は言葉を濁した。

彼は初めてその事実に気づいたようにはっと顔を戻し、あたふたと室内を見回した。奥のタンスに目を留め、「ええと……」と歯切れ悪く漏らしながら引き出しを開ける。

彼が取り出したのは、ネイビーのトレーナーだった。

「良かったら使って」

春子はトレーナーを受け取った。

「じゃあ……シャワー借りてもいい?」

「うん、もちろん」

満雄はバスタオルを取り出し、玄関横のドアを指差した。

「お風呂はそこだから」

春子はバスタオルを受け取り、バスルームのドアを開けた。トイレ兼浴室だ。ドアの鍵を閉め、一息つく。

無理解な両親にうんざりし、口論のすえ、スマートフォンだけを握り締めて衝動的に家出した。着の身着のままだった。外に飛び出してから雨に気づいたが、捨て台詞を吐いた手前、今さら舞い戻るわけにもいかず、走り続けた。

そして──たまたま目についたコンビニの軒下で雨宿りをした。

誰もが好奇の目を向けたり、遠巻きに眺めたり、無視したりする中、彼に優しく声をかけられ、救われた気がした。お風呂まで貸してもらって、申しわけなく思う。

昔は少女漫画のような出会いを夢見ていたな──と思い出した。白馬の王子様とはいかなくても、運命的な出会いをして、見初められて、恋に落ち──。もちろん、満雄に対してそんな感情を抱いているわけではない。ちょっと特別な出会い方をしただけで……。

そのとき、スマートフォンが通知音を発した。見ると、母からのショートメールだった。

『どこで何をしてるの』

心配というより追及のように感じ、春子は返信しなかった。

春子はセーラー服を脱ぐと、全裸になった。自分の体を改めて眺める。雑誌で見るグラビアアイドルの完璧なプロポーションと比較しては劣等感を覚え、母に注意されるほど無理なダイエットを試みては失敗している。怪しいサプリメントに手を出したこともある。

自己肯定感の低さがいやになる。だが、そればかりはどうしようもなかった。

シャワーを浴びてからバスタブを出る。

洗濯機の上に置いておいた下着をつけ、セーラー服の代わりに借り物のトレーナーを着る。サイズはかなり大きめで、袖は手の甲を覆うほど長く、丈も股を隠すほどだ。

それでもトレーナー1枚はさすがに恥ずかしく、少し濡れているスカートを穿いてから浴室を出た。

ドアを開けたとたん、ベッドの前に腰掛けていた満雄の眼差しが全身に注がれた。

「……何? 変?」

満雄は再び目を逸らした。蛍光灯の真下に座っていると、頭部の地肌が透けている。

彼がおずおずと答えた。

「自分のトレーナーを着られるの、ちょっと変な感じがしちゃって」

変な感じ──か。

オブラートに包んだのか、適切な語彙が見つからなかったのか。

ありがちな男女のシチュエーションに、心が浮き立っているのではないか。

こんな私に下心を抱いているのだろうか……。

春子は彼の内心に気づかないふりをし、台所に視線を逃がした。

「満君、晩ご飯まだなら、何か作ろうか?」

「え?」

「助けてもらったお礼に……」

沈黙が返ってきた。

怪訝に思いながら満雄を見ると、彼は脇のレジ袋を見つめていた。言いにくそうにしている。

「あ、それ、コンビニの──」

そういえば、彼はコンビニで買い物をしたのだ。帰り道でもレジ袋を提げていた。

「晩ご飯、もう買ってるよね。ごめんなさい、気づかなくて」

満雄は頭を搔いた。

「でも、何か作ってくれるなら嬉しいかな。コンビニ弁当は食べ飽きてるし、味気なくて」

「だよね。私も普段はコンビニとかスーパーで出来合いの物を買って、すませちゃうことが多いから、すごく分かる。じゃあ、何か作るね」

「いいの?」

春子は冷蔵庫に歩み寄り、扉を開けた。

「材料あればいいけど……」

料理をしている印象がなかったから期待はしていなかったものの、生卵、ウインナー、豆腐、味噌、豚肉、袋入りのピーマンなど──それなりに材料は揃っていた。

冷蔵庫の下の引き出しを開けてみると、他の野菜類もあった。

「料理は得意じゃないから期待しないでね」

「何でも嬉しいよ。手料理なんて、実家暮らしだったときに母親が作ってくれて以来だし……」

春子は食材を取り出すと、フライパンを用意した。まな板を洗って野菜を置く。

インターネットでレシピを調べようとして、スマートフォンを取り出した。検索サイトを開くと、ニュース一覧が表示された。国際情勢のニュースや芸能人の不倫のニュースがタイトルになっている中、目に飛び込んできたのは──。

『10代前半の少女を自宅に連れていった疑いで東京都の46歳男を逮捕。少女に淫行……』

はっとしたものの、これは状況が違う、合意なんだから、と自分に言い聞かせ、さっさと料理名を検索欄に打ち込んでレシピを探した。

料理をはじめたとき、リビングの満雄が話しかけてきた。

「そういえばさ、どうして家出とかしたの? あんな雨の中で……あっ、無理して話さなくてもいいけど」

心配そうな口調に、春子は包丁を持つ手を止めた。自分の手元をじっと睨みつける。

蘇ってくるのは──不快で腹立たしい記憶だった。

「親が……」

ぽつりとつぶやいたまま、言葉が喉に詰まる。包丁の柄を握る手に力が籠った。

「最悪で……」

「暴力──とか?」

「殴られたり蹴られたりはないけど、お父さんはすぐ怒鳴るの。『飯はまだか!』って。お母さんがいない日は、私が食事を用意してる。でも、『味が濃い!』とか『茶がないぞ!』とか、文句や我がままばっかり。私はまるでお父さんの奴隷」

「ひどいね……」

──テレビのチャンネルを変えてくれ。

──野球の試合がはじまってしまうだろ。

──味噌汁のおかわりをくれ。

怒鳴るような父親の大声が耳に蘇ってくる。

自分でやってよ──と言い返したいのをぐっとこらえ、従ってきた。感謝をされることもない。

「お母さんはお母さんで、私を無視してる。同じ家で生活してても、私の存在が鬱陶しいみたいに……。ご飯だって、コンビニにでも行って適当に何か買って食べて──ってたまにお小遣いを手渡されるだけ」

「そうなんだ……」

「お母さんにお父さんのことを訴えても、養ってあげてるんだから文句言うな、って怒鳴られて」

親が子を養うのは当然ではないか──。

そう反論したくても、言い返したら何倍にもなって感情的な言葉が返ってくるので、ひたすら我慢している。

「お母さんもお父さんも、私の苦しみなんて想像もしてくれなくて、怒鳴ってばっかり。家にいるのに耐えられなくて、口喧嘩して、衝動的に家出しちゃった」

春子は唇を嚙み締めた。怒りと悲しみがない交ぜになって、胸の中がぐちゃぐちゃになる。

「春──ちゃんは普段は何してるの?」

春子は嘆息し、包丁で野菜をカットしはじめた。しばらく無言の間が続いた。

「……引きこもってる」

満雄が「え?」と訊き返した。

声が聞こえなかったわけではないだろう。

「引きこもり」春子は恥じ入りながら答えた。「女同士でいろいろあって、いじめられて、人間関係が怖くなって、それで、引きこもるようになったの」

「そうなんだ。まあ、人間関係って難しいしね。俺も会社で上司から怒鳴られて、いびられて、嫌気が差すよ」

春子は手を止め、彼に向き直った。

「私と同じ……」

「面倒臭いよね、そういうの。理不尽な人間が一人いるだけで、地獄だよ」

「だよね」

「春ちゃんも大変な想いをしてるんだ。同じ経験をしている者同士、気が合うかも?」

彼は冗談めかして言った後、あはは、と苦笑いした。

「私、引きこもってるから、全然人と喋ってなくて……。こうして話し相手がいるだけでも癒される」

「俺もそうだよ。人との会話なんて職場だけだし。しかも、仕事の内容だけで、楽しさ皆無。誰かと話すの、ゲーム内のチャットくらいかな。最近は忙しくて遊んでられないけど」

「繋がりって──必要だよね」

その後は黙って料理に専念した。

作ったのは肉野菜炒めと豆腐の味噌汁、出し巻き卵だ。ごく普通の献立だが、作るのには緊張した。座卓に皿を並べ、向かい合って絨毯に座る。

「美味そー!」

満雄が興奮した声を上げ、手料理を眺め回した。我ながら上手くできたと思う。

「よかった!」

春子は彼に笑顔を返した。

「でも──」満雄は少し申しわけなさそうな顔を見せた。「何だかごめん、作らせちゃって」

「どうして?」

「だって、父親のために料理を作らされたりして、うんざりしてるんでしょ?」

「そうだけど、これはお礼だから。作りたくて作っただけだよ。お父さんの世話とは全然別」

「……ありがとう」

満雄に無邪気な表情が戻った。

「いただきまーす」

彼は嬉しそうに手を合わせてから、箸を手に取った。出し巻き卵を口に運ぶ。

春子は彼の口元を注視した。

「……美味い! 何これ、ジュワって卵から美味しい出汁が出てくる。こんなの食べたことないよ」

満雄が笑顔を弾けさせた。

嬉しさが込み上げてくる。

いつか彼氏ができたら作ってあげたいと思って練習していた料理だ。

その後は他愛もない話をしながら、二人で食事をした。

時刻を確認すると、午後11時半になっていた。彼も春子の目線を追うように置時計を見た。

「ええと……」満雄が口ごもりながら切り出した。「どうしようか……」

「どうって?」

「いや、夜遅くなっちゃったし……。傘なら貸すよ」

春子は彼から目線を外した。

「……家には帰りたくないかな……」

相手の表情を見ていなくても、満雄が息を呑んだのが分かった。緊張が伝わってくる。

「家に帰っても親がウザイだけだし……」春子は慌てて付け加えた。「そういう意味」

「あ、うん、もちろんもちろん」

春子は彼をちら見した。

彼も目を逸らしていた。室内に忍び込んでくる雨音が大きくなった。

春子は髪の毛先を指でもてあそびながら言った。

「泊まっても──いい?」

満雄が驚いたように顔を上げた。

「ここに?」

春子はうなずいた。

「この大雨の中、外に出たくないし……」

「だよね……」

満雄は部屋の奥のベッドを一瞥した。それから春子に目を戻し、ごくりと喉を鳴らした。

彼の頭の中の葛藤が透けて見える。

だが、春子は気づかないふりを続けた。

「どうしようかな……」

曖昧な台詞で反応を待つ。

満雄は自分の指先を撫でていた。やがて緊張が絡んだ息を吐き、目を逸らしたまま口を開く。

「じゃあ、春ちゃんがベッド使っていいよ。俺は──」彼は絨毯を見た。「この辺で寝るから」

「いいの?」

満雄は「慣れてるから」と笑った。「絨毯で寝落ちすることも結構あるし。仕事で疲れ切って、そのまま、とか」

「ありがとう」

春子は立ち上がり、ベッドに近づいた。

入れ替わるように満雄が浴室のドアへ向かった。

「満君は寝ないの?」

声をかけると、満雄が振り返った。

「俺は洗濯してから寝るよ。春ちゃんの濡れたセーラー服も洗って乾かさなきゃ」

「ごめんね、面倒かけて」

「全然。じゃあ、明かり消すね」

満雄が壁のスイッチで天井の蛍光灯を消した。室内が薄闇に覆われた。

彼が浴室に姿を消すと、春子はベッドに横たわった。布団を引っ張り上げ、目を閉じた。

睡魔はほどなくして襲ってきた。

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下村敦史 作家

1981年京都府生まれ。2014年『闇に香る嘘』で江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。数々のミステリランキングで評価を受ける。15年「死は朝、羽ばたく」が日本推理作家協会賞(短編部門)の、16年『生還者』が日本推理作家協会賞(長編及び連作短編部門)の候補に、『黙過』が第21回大藪春彦賞の候補となる。ほか『絶声』『法の雨』など幅広いジャンルで著書多数

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