地図が手に入りづらい場所はあっても、完全に地図が存在しない場所というのは、現代においておそらくない。では、本書のタイトルにある「地図なき山」とは何か。それは「あえて地図を持たずに」旅した山のこと。山域は日高山脈。北海道のどの位置にあって、南北に山脈が延びている、などのおおまかな知識を持ちながらも、個々の山や沢の名前は知らず、等高線の入った地図を過去に見たこともなかったという(ある時からは自分の中の地理的「空白」を維持するために、意識して地図は目にせず、人から話を聞かないようにもしていたらしい)。
本書は、2017年夏の最初の「地図なし登山」からはじまり、20年、21年、22年それぞれの夏に、全部で4回、合計49日間の日高での山行記録が収められている。これまでの角幡唯介さんの物語と比べると、ピリピリとしたスリルのある冒険譚が読めるわけではない。でも、決して退屈しない。赤裸々な思考の旅を楽しめるからだ。そもそも、どうして地図を持たずに旅をしようと思ったのか。地図なし登山はどうあるべきか。地図なし登山をすることによって、なにがもたらされるのか。長期間にわたり前代未聞の行為を続け、深く思考しつづけたからこそ厚みがあり、角幡ファンにとっては「あの本とつながっている!」という発見もある。
私が思い出したのは『極夜行』だ。太陽が昇らない極夜の北極圏を約4ヶ月も徒歩で旅をし、とうとう極夜が明けて地平線の向こうに太陽が顔を現し、光が溢れてくる。その描写は、まるで自分がその場にいて、感動のおこぼれにあずかったような特別な読書体験だった。単に目的があるだけではなく、行為の果てに得られるものを求め、またその行為の意味自体を試行錯誤して作り出すことにおいて、今この時代、著者は他に類をみない存在だろう。
今回描かれている日高山脈での漂泊山行、真似をしたいとはまったく思わない。特に初回の旅は、読んでいて、百戦錬磨の角幡さんでさえ未知のことが多すぎて、達成感や発見よりもストレスを抱えて終わった印象を持った。事実、2度目の地図なし登山を実施するまで3年の間隔が空いている。ただし、3、4回目になると「山口君」という同行者ができて、旅にぐっと明るさが増す。あえてなのか、著者と対比的に書かれており、山口君は地図なし登山の意味にこだわる様子もなく、釣りをしながら山を楽しそうに進んでいくのだ。
「地図なし登山」という破天荒な行為が著者にもたらした思考が丁寧に書かれている。けれど、私は山口君の登場のあたりから全く違うことを考えてしまった。書かれてはいないけれど、本当は、地図はあった方がいいし、めんどくさいことを考えずにただ釣りを楽しむだけに深山に分け入ってもいいんだ、と角幡さんは思っているのではないか、ということだ。
本の山
- バックナンバー
-
- 前代未聞の行為について思考し続ける探検家...
- 個性豊かな者同士の穏やかなぶつかり合い ...
- なぜ学びが必要なのか―敷かれた道を進むこ...
- 無心で身体を動かすことで感情を露わにする...
- 捨てられたガムへの偏って、強烈な思い -...
- 勝敗を超えたところに見るものは -『いま...
- 奇談好きなリーダーが導く新たな生きる活力...
- 辛い状況にあっても新しい道を切り拓く家 ...
- 「なぜ写真を撮るのか」をしっかり知るべき...
- 引退競走馬の未来に光が当たるということ ...
- シンプルな行為の中にも人それぞれの思いが...
- 当事者による文学が問う健常者の「無意識の...
- 事実を知ることは人の命を尊ぶこと -『黒...
- いちばんしたいこととはいちばん大切なもの...
- 知らない世界だからこそ自由に想像できる ...
- 守りきれたものは、いずれかたちを変えて自...
- サーカス - 誰しもが自分の居場所を見つ...
- 物語と料理が一体となって、読者の記憶に残...
- 北の大地を舞台にした熱気溢れる壮大なドラ...
- 「初心者目線」を保ち遭難者を発見する -...
- もっと見る