
グルーブ感あふれる文体で人間の本質を衝く物語を紡ぐ町田康さん。『俺の文章修行』では自らの文体に宿る精神と技巧をはじめて告白しました。書くことでしか伝わらない此の世、この現実。本書より、「5 文章を書く装置の性能を上げる」をお届けします。
文章を書く装置の性能を上げる
『ちからたろう』の読書体験により、「此の世には理解できないことがある」という教訓を得て、それを「見聞きしたものを文章に変換する装置」に組み込んだ俺は、その後、すくすくと成長して小学校に入学した。
俺の学業成績は抜群で、神童、という評判を取った。というのは噓で、俺が神童と呼ばれることはなかった。それどころか学業まるでふるわず、アホなお子、という評判を取っていた。
というのはけれども俺の頭が悪いということではない。
どういうことかと言うと、此の世には理解できないことがある、と知った俺にとって、すべてのことは勉強すれば理解できる、という前提の学校の勉強がおもしろくなかった。
またその学校の勉強が前提とする世界は、建て前的な理解を重視する世界で、俺が『ちからたろう』から教訓を得たような、個人的な理解はそこでは一切、認められなかった。
ということから俺の成績がふるわなかったのは俺の頭が悪いからではなく、俺にとっておもしろいものでなかったからなのだが、世間の人や学校の先生はそんなことを知らないから、注意力散漫なアホの子、と認定していた。残念である。
ということで、俺は学校の勉強をあまりせず、近所の空地をほっつき歩いて、虫を捕ったり、学校から、危険なので絶対に行ってはならない、と通告されている一級河川に参って、水に浸かって魚や玉じゃくしを漁るなどして遊び呆けていた。或いは級友の家を訪ね、ゲームをしたり、漫画本を読み耽るなどし、また、駄菓子屋に行って買い食いをし、「あてもん」と言われる、一種の籤(くじ)を引くなど浪費的なこともしていたのである。
そして家にいるときは概ね本を読むかテレビを観るかしていた。そんなことで俺の文章には当時のテレビ番組の影響が多くあるはずなのだが、とりあえず本の話をすると言ったので、本の話をすると、前にも言ったように、俺は多分、多くの本を読んでおらず、同じ本を何回も何回も読んだように思う。
そして前にも申しあげた通り自分で選んだ本なのだけれども、その選択の幅は極度に狭く、この喩えが合っているのかどうか、多分、間違っているのだと思うのだけれども、社会主義市場経済というか管理変動相場制というか、そんなことで、具体的にどうだったかというと、多分、休日、両親と一緒に心斎橋とか難波といった繁華街に行き、飯や買い物を済ませた後、書店に立ち寄り、児童文学、みたいな棚の前に連れて行かれ、「この辺にある奴で好きなのを選べ。買うてやる」と父親に言われ、それで選んだものと思われる。
そうして選んだ本がどんな本であったか覚えているものを挙げると、『ふくつの発明王エジソン』『小公女』『名探偵ホームズ四つの署名』『シートン動物記2灰色グマ、ワーブの一生』で、俺はこの四冊を繰り返し繰り返し、何度も読んだように思う。
そしてその内容がどんなだったかというと、例えば、この『小公女』というのはまだ小さい金持ちの娘が親の死によって極貧になり、だけど拾った猿を届けたことが切っ掛けでまた金持ちの暮らしができるようになる、という話である。
この話を俺は何度も何度も繰り返し読んだ。なぜかというと、それは気色がよかったからである。
なにが気色がよかったかというと、この不幸な少女が最終的に幸福になるのが気色よかった。
それは『ちからたろう』にも共通する、だけれどももっと明快な気色よさで、その気色よさを味わいたくて俺は何度も何度もこの本を読んだのである。
同じような気色よさは『ふくつの発明王エジソン』にもあった。奇矯な言動を繰り返し、「頭が腐っている」と言われ、学校をやめさせられたエジソンが独学で力を蓄え、多くの発明をして出世をする様が実に気色がよかったのである。
これらの気色よさの本然は何かというと、なって欲しいようになる、ということである。大人であれ子供であれ人間は、その人と会ったり話したりするうちに情というものが湧いてくる。それは本の中の人間でも同じで、少女セーラや少年アルの境遇・境涯を知るにつけ、「どうか幸福になってくれ」と願うようになる。
その願いが叶うのが気色よくてたまらない。それで俺は何度もこれらの本を読んだのである。
それは、『名探偵ホームズ四つの署名』も『シートン動物記2灰色グマ、ワーブの一生』もそうで、『名探偵ホームズ四つの署名』には、若くて美しい令嬢の身の上に起きた、なんだか訳のわからない、気味の悪い出来事が死ぬほど賢い人によって見る見る解決していく快感があり、『シートン動物記2灰色グマ、ワーブの一生』では、人間に銃撃されて母親を喪い、しょうむない狐に追いかけられて命からがら逃げる、みたいな寄る辺ない小熊が、だんだんに成長し、学び、逞しい若熊となり、森の王として君臨するに到るを見るのが痛快であった。
これにいたって自分は、「物語とはなって欲しいようになる気色よきもの」と心得るようになった。
その気色よさは友だちとする遊戯にはないものであった。
なんとなれば、友だちと例えば「行軍将棋ゲーム」をしたとする。当然、そのとき俺は勝ちたいと念じている。だけれども勝敗は時の運、負ける時だってあり、そういう時はおもしろくなく気分が悪い。
或いはもっと顕著なのは角力(すもう)や走り、野球といった運動競技で、こうしたものは体格やセンスで予(あらかじ)め勝敗が決しており、体格に劣るものはどうしたって勝てない。
だからそういうこともやるにはやったが、それよりも家に居て、間違いなく自分の思うようになっていく物語の世界に耽溺している方が気味がよかった。
こういう人を指して今日日(きょうび)の人は「陰キャ」と云い、才能や体格に恵まれ此の世を思い通りになして楽しく生きる人を「リア充」と云いならわすと聞く。しかし、いくらリア充といったところですべての人が、位人臣を極めて、此の世をば我が世とぞ思ふ、訳ではないだろうから、どんな人でもそれぞれの立場で、思い通りにならないことはあり、ことに人の心は、どれほど富や名声があったところで思うままにはならないので、どうしても物語の気色よさに惹かれる部分は之あるであろう。
って、そんなことはどうでもいい。つまり俺は、そこにあったから読む、みたいな、自然環境と変わらぬ読書から、自らそこに快感を求めて本を読むようになったのである。
つまりそれを一言で言うと、俺は物語のおもしろさを知ったのである。
しかーし。
俺は今、その物語のおもしろさについて、或いは、物語とはなにか、について語ろうとは思わない。なぜなら。
そう、物語のおもしろさ、話の筋道や人物を拵えて、読者に先(ま)ず気色悪さを与え、紆余曲折ありながらも最終的に気色よさに導く、腑に落ちる。合点がいく。ようにする物語の作成の技術は、今問われている文章力の問題とほとんど関係がないからである。
ただし。紅涙を絞る、或いは爆笑を呼ぶ、なんとも言えぬ切ない気持ちにさせる、なんていう、読者の、理智の働きでない情動の部分に影響を及ぼすのは、実は物語ではなく文章そのものに負うところが大きいのだが、この時点の俺の読書はそこにはまだ及んでいない。
ということなので、「どんな物語を読めば変換プロセッサの性能を上げることができるのか」という問いについては、「自分が気色よい物語でよい」という答になり、そして、物語はたいてい気色よいようにできているので、というか作者・語り手がそう作ろうと思わなくても自然に気色よくなってしまう性質があるので、「なんでもよい」という結論になってしまうのである。
ただーし。
子供の頃の俺のようにただただ気色よくなりたい、物語の世界に耽溺したい、というのならそれでも構わないし、というか今なら特に本でなくとも、映画や漫画も隆盛で、月に何百円か払えば見放題、みたいなものもあるので、それらを鑑賞すれば、なんぼうでもいい気分に浸ることができる。じゃあなぜそんな時代にワザワザ本を読むのかというと、最初から言っているように本を読むことによって読み書きを含む言葉全般の能力が高まるからで、俺は右に映画の話をしたが、映画を作るのだって最初は映像ではなく文章から始まっている。
どういうことかというと、映画というものは視覚的な表現だから、これの制作に携わる人の脳の中には映像がある。その映像をフィルムに写して、それで初めて映画になる。
だけれどもそのためには多くの人とその脳内の映像を共有しなければならない。なんとなれば映画は小説のように一人で拵えることはできないからである。とは言うものの脳のなかにある映像を他人に見せることはできないので、これを一旦文章に変換してこれを見せる。これ則ち台本である。
また映画を作るためにはその希望に応じて資金がかかる。自腹なら問わず、これを誰かに出して貰うためには、それが儲かる事業であることを説明しなければならない。そのとき口頭での説明ももちろんするが、先ず間違いなく、それを文章にして提出するよう求められる。これ則ち企画書である。
こんなとき言葉全般の能力が高い人と低い人ではその結果によほど差が生じる。そして言葉全般の能力が高いということは、そう、変換装置の性能がよいということである。
そのためにする読書なのであれば、単に気色よさを求めるだけではなく、ちょっとしたコツのようなものを知っておくとよく、それについて申しあげてこの話を終わろう。
そのコツとはなにか。
まあ、コツというよりは、ちょっとした心掛けのような、その程度のことである。ただそれによって変換装置の性能があがるのならこれに越したことはない。
ということで勿体ぶっても仕方がないので言うと、皆皆様には、俺が『ちからたろう』から得た教訓のひとつを思いだしてほしい。
それは、
①此の世には理解できないことがある。
②しかしそれを言明してはならない。
③そして今は理解できないかも知れないがそのうちに理解できるようになるかも知れない。
という教訓である。しかるにすべてが気色がよく、隅から隅まで、「わかーる」と共感して悦に入ることができるものには、この理解できない部分がない。
そうした場合どうなるか。人間の習性として、さらなる愉快、さらなる刺激を求めて、別の物語に手を出す。その行き着く先はどこか。文明が進んでえげつないことになってしまった欧州大戦の惨禍にも似た、頽廃堕落しきった精神の荒れ野である。もちろんそこに咲く花は邪悪で美しいし、そこで奏でられる音楽はどこまでも情動を刺激して疼痛の如き快美を齎(もたら)す。
それに浸りきって快楽を貪るのもまた人生。俺はそれが悪いことだとは毫(ごう)も思わぬ。
けど俺らはいまここでなにの話をしているのか。そう、文章力を高めるにはどうしたらよいかという話をしている。なら、それじゃあ、ダメだ。
なぜならそれだと語彙を自分のものとし、変換装置に組み込むための唯一の手段、二読三読に気持ちが向かわないからだ。
それは俺だってそうで、右に挙げた本は概ね気色のよいものであったが、そのなかには訣(わか)らない部分、なぜこうなるのだろう、という部分が少なからずあり、単に気色よいだけなら飽きてしまって、あのように何十回、何百回と読むことはなかっただろう。
その例をひとつ挙げると、『ふくつの発明王エジソン』に、
アルは子どもの頃はがき大将で云々
という一文があり、俺は六年くらいこの「はがき大将」という語の意味が訣らなかった。しかし自分で考え、その一文がネガティヴな文脈のなかに置かれていたことから、「何度、落ちても懸賞に応募して大量の葉書を費消して周囲を圧倒する悪い子供」という意味を導き出していた。
しかしその解釈に自ら疑いを抱いて、後にこれを、「子どもの頃はガキ大将で」と読めばスッと意味が通るということを知るまで何度も何度も読み、その都度、その本の中の語彙を知らぬ間に自分に取り込んでいったのである。
つまり。右に申しあげた、変換装置の性能を上げるための、ちょっとしたコツ、とはその内容を完全に理解して、物語に存分に酔えるものではなく、少し許(ばかり)六図(むず)かしくて訣らなひと思ふ位のものを選ぶとよい、ということ。
そしてそれは、ちょっとしたコツでありながら、物語の筋を読むことではなく、文章そのものを読む、愉しむ、という読書の醍醐味、ぎりぎりの肝要のところに繫がっていく。
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続きは、『俺の文章修行』をご覧ください。