
30歳を過ぎてバンドを解散し、人生に行き詰まりを感じた古舘佑太郎さん。先輩ミュージシャンの命令で、アジア放浪の旅に出ることに――。古舘さん初の著書『カトマンズに飛ばされて 旅嫌いな僕のアジア10カ国激闘日記』の旅の初日「3月1日 バンコク・カオサン通りの洗礼」より、一部抜粋してお届けします。
なんでこんな挑戦をするハメになったのか
僕は今、飛行機の中にいる。羽田空港国際線ターミナルから旅立ち、かれこれ数時間が経過した。離陸の時、窓に映る東京の風景に惜別の念は抱かなかった。とうとう始まってしまった、という諦めによる倦怠感だけが重くのしかかっていた。いくら耳抜きをしてもすっきりしない様子から、おおよそこの憂鬱に気圧は関係ないのだろう。
「一人旅に出たんだ!」
そう声高らかに宣言できたのなら、さぞ格好がついたはずだ。しかし、そうもいかないのは、僕がのっぴきならない事情ばかり抱える厄介者だからに他ならない。大きなリュックサックを背負い、小さなポーチを腰に巻きつけ、心には不安がどっさり詰まっている。ルートも宿泊先もゴールさえも、ほとんど決めていない。待ち受けているのは、アジア大陸放浪生活。唯一決まっているのは、ネパールのカトマンズを目指さなくてはならないということ。東南アジアをくぐり抜け、もしもその地に本当に辿(たど)り着けたなら、その後はインド亜大陸を巡るのもいいかもしれない。あくまでも、「本当に辿り着けたなら」の話だ。なぜこんな挑戦をするハメになったのかは、後々振り返ることにする。自分の厄介ぶりを治すにはちょうどいい荒療治のような気もしているが……。
今朝。出発の2時間前にはすでにゲートの前でチケットを握り締めて立っていた。搭乗アナウンスと共に機内へと乗り込む。席へと腰を下ろした時には、「よし、まずはなんとかなったぞ」と安堵した。窓際に日本人の老夫婦、通路側に僕だ。仲睦まじい2人からは、夫婦水入らずの旅行を楽しみにしている様子がうかがえた。
前方から客室乗務員がヒールを鳴らしながら歩いてきた。通路側の僕に覆い被さるように身を乗り出し、夫婦にシートベルトの正しいつけ方を教え始めた。東南アジア人だと思われるその女性客室乗務員の制服から漂う芳しい香りが、僕の鼻先をくすぐった。いい気分になったのも束の間。ドタバタと遅れて乗り込んできた大柄な欧米人男性が、僕の頭上のラックに大きな荷物を押し込み始めた。背を伸ばす彼のジャケットの裾が、僕の頬(ほほ)あたりで揺れている。焦りから手こずっている様子で、なかなか納まらない。ジャケットの裾は僕の頬をソフトにビンタし続けた。ペチペチペチ……。彼の独特な体臭で、先ほどのフレグランスは瞬時に掻き消された。
「あ、帰りたい」
と思ったが、もう遅かった。数分後。僕にとっては不運なことだが、無事に離陸が成功したと告げられた。
家族や友人との旅行なら、国内外問わず何度か経験もある。しかし、こんな冒険めいたスリリングで孤独な渡航は初めてのことだった。普段の飛行機移動では、窓際の席を希望して悠々自適に居眠りでもするのだが、今回は通路側を選んでいた。元々、不安を感じると頻尿になりやすい。心配は見事的中し、水をがぶ飲みしたわけでもブラックコーヒーを飲んだわけでもないのに、すでに何度もトイレへと駆け込んでいる。通路側にしたおかげで、誰にも迷惑をかけることはない。ひとまず膀胱のほうは安心だ。このように、僕の感情は不安定な気流の中を飛ぶ機体よりもグラグラと揺れ続けているのであった。
極端な潔癖症でせっかち、虫も触れない臆病者なのに
せっかくなので、自身を振り返ろうと思う。32歳、東京都出身。高校時代に幼馴染とバンドを組み、19歳でメジャーデビュー。解散後にソロ活動を経て、25歳の時に新たなバンドを結成した。贅沢はできないけれど、かれこれ10年以上、ミュージシャンという職業にしがみついてきた。仲間とともに大きなステージで音を鳴らすことは、一生かけて追いかけたい夢だった。
しかし今年、メンバーで何度も話し合いを重ねた末に、僕らは解散することになった。理由は喧嘩別れではない。30歳を過ぎて、メンバーそれぞれの事情と思いがまとまらなかったことが大きい。みんなが前に進むための最善の選択だった。
そして一人になった僕は、音楽に対して冷め切っていることに気づいてしまった。あれほど情熱を注いできたのに、心にエンプティマークが灯っている。今となってみれば、僕自身のガス欠も解散の理由の一つだったのではないか、と思う。過ぎたことにいつまでもウジウジしているわけにもいかない。しかし、前に進むといったって、どこに踏み出したらいいのだろう。スケジュールはガラ空き。心は空っぽ。そんな背景が僕を旅へと誘(いざな)ったのだ。
白状しておかなくてはならないことは他にもまだある。僕は、温室育ちのボンクラだ。度を越した神経質。主な自覚症状としては、極端な潔癖症、異常なまでのせっかち、臆病者で虫さえも触れない。そして、声を大にして叫びたい。
「旅は嫌いだ!」
人生で一度も興味が湧いたことはなかった。友人から旅行に誘われたら便乗するぐらいの社交性は持ち合わせているが、いつも早く帰りたい気持ちを押し殺して楽しそうなフリをしていた。一人旅なんてもってのほか。アジア大陸なんて論外だ。そんな場所にわざわざ一人で行くヤツなんて正気の沙汰とは思えなかった。
もしもの場合は「東京潜伏記」にするしかない
信じられないかもしれないが、これから始まる物語の主人公はそんな男なのだ。さぁ、どうする? 旅に出ることを知った家族、友人、仕事関係者たちは誰も止めてくれなかった。どうやらみんなにとって、本当に荒療治をしなくてはならないほどの厄介者なのだろう。途中でリタイアなんてしたら合わせる顔がない。もしもの場合は、この日記を途中から「東京潜伏記」にするしかない。こっそり帰国して、誰にも会わないで2カ月間やり過ごすのだ。改めて、自分に問いかける。
「さぁ、どうする?」
「帰り方を忘れるほど地図からはみ出せ!」
ヤケになったもう一人の自分がそう言った気がした。怯(おび)えなのか、武者震いなのか、ブルッと心が震えたのがわかった。
前のモニターを見ると、あと1時間でタイに着くようだ……。
* * *
ついに旅は始まってしまいました。バンコク・カオサン通りに到着した古舘さんを待ち受けていたものは――。続きは『カトマンズに飛ばされて 旅嫌いな僕のアジア10カ国激闘日記』でお楽しみください。
本書の刊行を記念し、3月25日(火)19時より、代官山蔦屋書店でトークイベントを開催します。ゲストはサカナクション・山口一郎さん。会場参加チケットは完売しましたが、当日、インスタライブで無料配信を行います。インスタライブは古舘佑太郎さんの公式アカウント @yutaro_furutachi にて開催予定です。詳しくは代官山蔦屋書店のイベントページをご覧ください。
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カトマンズに飛ばされて

10代の頃からミュージシャンを生業としてきた古舘佑太郎は、32歳でバンドを解散。自分自身も未来も見えなくなるなか、先輩のサカナクション・山口一郎に「カトマンズに行け!」と命じられる。そして追い出されるようにアジア放浪へ。潔癖症かつせっかちで、そもそも旅が嫌い。バックパッカーなんてあり得ない。人生初めての過呼吸、27時間の越境バス、ゴキブリまみれの夜行列車、売人とボートレース、山岳地帯でバイク事故、潔癖症のガンジス川沐浴……。トラブルだらけの一人旅で日記を綴るうちに見つかったのは、思いもよらぬ己の姿だった。
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