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巣鴨のお寿司屋で、帰れと言われたことがある

2025.04.26 公開 ポスト

下関の記憶、キュロットがキュロットではない

「ズボンの上にスカート」って何? 4歳の頃、下関で出会った憧れの服古賀及子(エッセイスト)

気鋭のエッセイスト・古賀及子さんの書き下ろしエッセイ『巣鴨のお寿司屋で、帰れと言われたことがある』より、4歳の頃過ごした下関での唯一の記憶「キュロットがキュロットではなかった」件についてのお話です。

下関の記憶、キュロットがキュロットではない

下関のことは名物が河豚ということくらいしかわからず、それにしては、しものせき、という語感は私にとってあまりに身近だ。

山口県の下関市に、四歳の頃一年ほど父の仕事の都合で家族で暮らした。

今もだけれど、四歳の私は熱狂的な『ドラえもん』ファンだった。当時の写真にはドラえもんの顔のワッペンのついた黄色いランニングシャツを着る私が写っている。そんな服よく売ってたなと思うほど底抜けに元気な服でいい。

仮住まいのように短い間暮らした社宅で、私はドラえもんを真似て押し入れを寝室とした。父母が面白がって願いを受け入れたんだろう。ただし、本来のドラえもんと同じ押し入れの二段目ではなく、私が寝たのは一段目で、落ちたら大変だものね。

夜に寝て、起きたら世界は四角く真っ暗だ。ふすまを引っ張ると、隙間から朝の日が縦に押し入れの中に差す。ためらわず思い切って開け切ればそこにはいつも朝があった。転がり出る。

社宅は古い団地のような作りの低層の集合住宅だ。建物の前の駐車場は打ちっぱなしのコンクリートの舗装に薄く砂が敷いてあるだけで、雨が降るとあちこちに水たまりができた。あえて避けずに赤い長靴でずかずか歩いた。

と、これが本当の記憶なのか、実はちょっともうよくわからない。

しものせきが、しものせきに、しものせきの頃はと、下関は両親や親戚の話題にたびたび出た。物心をつけながら、ずっと地名を咀嚼してきた。下関で暮らした経験を、私は誇らしく携え生きてきた。記憶こそ薄れてしまったけれど、たしかに持っている実績として。

社宅の前で撮影した、同じ歳の頃の女の子と私が並んで写っている写真がある。雨上がりらしく、地面に水たまりができて私は長靴を履いた足を交差してずいぶん機嫌よく笑顔だ。隣の女の子も顔をくしゃくしゃにして笑う。同じ社宅に暮らす家の子で、よく遊んでいたそうだ。せつこちゃんといって、私も母もせっちゃんと呼んでいた。

私たちはいつもひざ丈くらいのプリーツのスカートを穿いていた。その頃の女の子の服装というのが、だいたいそういうものだったんじゃないか。

並んで写真を撮ってもらったあと、私たちは足元の水たまりを見下ろす。スカートからぎりぎり出たひざこぞうと、ぶかぶかの長靴の赤が水面に映る。押し入れで暮らしたことや水たまりのことは、あとから写真で得た情報をもとに再生したような、事実ではない後付けの手ざわりがある。それはそれで、思い出らしいなとも思う。

そんなあいまいさのなかで、ひとつだけ、複製でも捏造でもないと確かな記憶がある。

せっちゃんが、いつもとは違う様子の服を着てきた。プリーツの入っていない巻きスカート、でも巻きスカートのひらひらした前をめくると、中はゆったりしたショートパンツになっている。

すごい。スカートなのに、ズボンだ。かっこいい。

「それ、なんていう服」と聞くとせっちゃんは「キュロット」と答えた。

私は何かを買ってほしいとねだることが苦手な子どもだった。つねづね孫になんらかを買い与えたいと手ぐすねを引いて待っていたありがたい祖母の期待に、まるで応えられない出来のわるい孫だ。それがこのときだけは、よほど欲しかったのか母を通じて祖母にねだった。

光の速さでキュロットは届けられて、けれどそれは私の欲しいせっちゃんのキュロットとはどうも様子が違う、ショートパンツの裾が広がったものだった。

つまり、キュロットだった。

せっちゃんが着ていたものは、どうだろう、今考えてもどう呼んだらいいのか、ピンとくる名称が無い。キュロットと言えばキュロットだ。

祖母の送ってくれたものを手に、こういうのじゃなくて、ズボンの上にスカートが巻いてあるやつで、と母にあらためて説明はしたと思う。けれど、なにしろキュロットが欲しいと言ってキュロットを手に入れてしまった私なので、別のものだと言われたところで母としても甘やかすのは避けたかっただろう。この話はそれっきりになった。

欲しかったキュロットがキュロットではなかった。これが、下関の暮らしのなかで私が自力でしっかりと実感を持って覚えている、唯一の記憶ということになった。

その後、中学に上がった私は自分のお小遣いで衣類を買うようになり、下関から遠く離れた埼玉県の沢所(ところざわ)のダイエーで、ついにせっちゃんが穿いていたものと同じ形の服を見つけることになる。せっちゃんの穿いていたのはデニム地だったけれど、私が見つけたのは化繊でできた白と黒の千鳥格子のものだった。

買って気に入ってずいぶん穿いた。

*   *   *

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古賀及子 エッセイスト

1979年東京生まれ。エッセイスト。著書に日記エッセイ『おくれ毛で風を切れ』『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』、エッセイ『気づいたこと、気づかないままのこと』『好きな食べ物が見つからない』がある。

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