6月10日未明に第1班が出発、11日に第2班、そして12日早朝に第3班が出発します。新幕までは計画通り列車で移動できたものの、その後、手配していたはずのトラックには乗れず、道案内を自称する朝鮮人の集団からたびたび案内料をむしり取られ、さらに道中、消耗しきった4歳の男の子が命を落とします。そして出発から6日目を迎え……。
扇や都甲らの率いる二百数十人の第三班は、いくつかの街道が交差する漏川という集落にさしかかっていた。海州(かいしゅう)へと向かう道筋をしばらくたどったのち、担架に病人を乗せて腰までつかる川を苦労して渡り終えた。通りすがりの朝鮮人が声をかけてきた。
「敗戦国に帰っても何もいいことなどないですよ。とくに子どもたちはかわいそうだ。ここで立派に育ててあげるから置いていきなさい」
応じる者はいなかった。
全員に行き渡るだけの握り飯を買う金もないため、本部員が持参した炒り豆や大豆が食事代わりに配られた。幼い弟を亡くしたばかりの荒木家のきょうだいは、再び大豆をかじりながら歩き続けた。麦畑を横切り、川べりを過ぎ、切り通しの細い山道を抜けた。どこをどう歩いているのか、ほかの班やはぐれた仲間がどこにいるのか、まったくわからなかった。
ようやく晴れ渡った十七日の明け方、集落に下りる前に山中で長い休息をとった。歩きはじめてから三日目に入り、人々の地下足袋はすり切れ、ズックの底もパックリと口を開けて足指がのぞいていた。新幕からもう五〇キロ近く歩いてきたはずだった。
「そろそろ三八度線にさしかかってもいいころじゃないのか」
雨や泥で真っ黒に汚れた人々は、みなすがるような思いだった。その様子を横目で見ていた案内人が「今夜、三八度線を突破できますよ」と言った。
夜が更けると出発が宣言された。星空の下、うねうねと続く田んぼのあぜ道をたどり、暗い山道を越えると、眼前に川が見えてきた。十八日の午前一時を回っていた。両岸に河川敷が白く広がっている。案内人が振り返って言った。
「この川までくれば大丈夫。もう三八度線を越えたから、案内料を支払ってください」
三八度線には川が流れている、と人づてに聞いていた者は多かった。しかし、このあたりには黄海へと流れ下る禮成江(れいせいこう)の本流から枝分かれした大小の河川が、朝鮮半島を東西に走る三八度線とからみ合いながら、それこそ無数に流れている。
「ここはまだ北鮮じゃないのか。これは何という川なのだ」
尋ねても返答はなかった。半ばあきらめがちに金を集めて支払うと、案内人は前方の山を指して「もう一つ山を越えれば南鮮の集落がありますよ」と言い残し、足早に去っていった。
腑に落ちない思いで山を登ると、案の定、山賊の集団が現れた。疲れきった人々にはもう抵抗する気力も残されていなかった。ほとんど所持品のない難民の代わりに、居留民の一団が被害にあった。子どもたちは泣くことさえ忘れ、観念したような表情で強奪の様子をじっと見つめていた。三八度線のすぐ北側の山域は、山賊が越境者から身ぐるみを剝ぐための最後の無法地帯と化していた。