ぼんやりと明るい方角に向かって歩き続け、警備兵の詰所らしい小屋の横を過ぎると、前方に天地を区切るように果てしなく続く一直線の石垣が見えてきた。三八度線直下の銀
川(ぎんせん)面はもうすぐそこだった。中心集落の白川(はくせん)には京義線に接続する支線の駅があり、列車も運行されているはずだ。すでに日は高く、本来は物陰で休息をとる時間帯だったが、重い足を引きずるようにして歩き続けた。保安隊の警備員が現れると、予想に反して白川までの道のりを教えてくれた。どうやら山賊が支配する無法地帯を過ぎたのは間違いなさそうだった。
もう丸一日の間、休まずに歩き続けていた。長い宵がようやく更けた午後八時ごろ街道に出た。長い列をつくってなおも歩いた。三八度線の検問所に到達したのは、日付が変わって十九日の午前三時前になっていた。日本人難民と知ると、徹夜の任務についていた朝鮮人の警備隊責任者がこう言ってゲートを開けてくれた。
「ソ連兵は今、みな寝ている。かまわないから早く行け」
扇は拝むようにしてその場を通り過ぎた。二〇〇人を超える日本人難民の群れは、みな小走りに三八度線という呪縛を突っ切った。郭山の仮宿舎を発ってちょうど一週間が経過していた。
道はさらに続いていたが、もう何も考える必要はなかった。しばらく歩き続けると、あたりはうっすらと明るくなり、前方に米軍のゲートの明かりが見えた。たどりついてみると、まだあちこちで米兵の懐中電灯が揺れていた。
「ジャパニーズ?」
「イエス」
簡単な審問を受けて米軍政庁が管理する朝鮮南部に入った。
白川駅にたどりついたころには、もうすっかり朝の気配だった。終戦前には朝鮮北部の駅と変わらない普通の小駅だったにちがいない。しかし、南北分断の最前線となった駅前の雑踏は、なぜか郭山のそれとはまったくちがうものに見えた。いくらか所持金を残していた都甲ら居留民は、駅前で売られていた朝鮮餅を買い求めて一口ずつほおばった。
午後、三八度線の南を並行して走る越境者用の特別列車に乗車できた。白川から京義線と合流する土城まではわずか三駅、一五キロの行程に過ぎない。扇ら南下第三班の資金は、この運賃を支払ったところで完全に底をついた。文字どおりぎりぎりの三八度線越えだった。
* * *
第1班はほぼ計画通り開城に到着、第2班も途中で班が分断される危機を乗り越えて到着し、ようやく苦難の脱出行から解放されました。
本では、その後の日本に帰国するまでのエピソードなどが、貴重な写真資料とともに綴られています。興味を持たれたかたはお読みいただけると幸いです。
*第4回「僕を穴のなかに埋めないでね」は6月6日(土)に掲載予定です。