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わたしの容れもの

2018.04.22 公開 ポスト

人間ドックが好きだ角田光代

人間ドックの結果だけで、話が弾むようになる、中年という世代。老いの兆しは、悲しいはずなのに、なぜか嬉々として話すようになるのです。そんな加齢の変化を好奇心たっぷりに綴った角田光代さんの『わたしの容れもの』が、文庫になりました。一部再掲載して、変わることのおもしろさをお届けします。

 私の知らない私を知る

 人間ドックが好きだ。はじめて受けたのは三十七歳のときで、しょっぱなからすでに好きだった。

 はじめていった人間ドックは、ビルの上階にある健診センターで、窓が広く、町が一望でき、待合室には大型テレビがあり、あちこちのラックにいろんな種類の雑誌があった。健康ランドで着るような作さ務む衣え状の衣類に着替え、私は軽く興奮してテレビを見たり雑誌を眺めたりし、番号を呼ばれるたび立ち上がって検査を受けた。

 いちばん驚いたのは胃のレントゲンである。バリウムの飲みにくさは知っていたけれど、動く台の上に寝そべって、検査技師の人の言うとおりにぐるぐるまわるのだが、なんとアクロバティックな動きを要求されるのだろう。ご高齢の人はどうしているのかと、思わず心配になるほどである。

 それからマンモグラフィーというものに絶句した。乳がんの検査で、乳を万まん力りきのような機械でつぶしてレントゲンを撮るのである。しかも縦と横に。これが想像を絶する痛さだった。検査技師の人は「痛かったら言ってくださいね」と言うのであるが、「痛いですーっ」と伝えると、「はい、もう少しがんばりましょう!」と励まして、まだまだギューッとつぶす。「痛い痛い痛いいいいーっ」と私は思わず叫んだ。翌年から、マンモグラフィーは避けて、エコー検査に変えた。

 半日ドックは午前中で終わる。支給されたお弁当を、広い窓に沿ったカウンター席で食べた。バリウムはまだ胃に残っているし、乳はひりひりと痛むものの、妙にすがすがしい達成感があり、窓の外の開けた景色を見ていたら気分がよくなった。

 以来、毎年受けている。

 翌年には、脳の検査もやった。MRIである。まんまるい機械に寝そべった状態で入って、脳の断面図を撮影してもらうのである。

 音がすごいからと、係の人がヘッドホンを渡してくれる。これをぴったり装着し、寝そべる。自動的に筒型機械にぐいーんと入っていく。なかは暗い。

 がごごごごご、とはじまった音は、道路工事に似ているが、私には耐えられないというほどでもなく、気がついたら寝ていた。

 ドックの結果はだいたい一カ月以内に届く。わからない単語やアルファベットや数字がたくさん書いてある。これを読み解いていく。何やらたのしい。聞き覚えのある単語を見つけて「お、これがかの有名なガンマナントカか」と納得したり、「コレステロールに種類があるのか、おお悪玉善玉か」と知ったりする。なおかつわからないものもある。白血球とか赤血球とか、何がどうなっていてどう関係しているのか? 電解質ってなんだ? など。でもとくに深く調べようとしないのは、みな値が正常だから。

 異常なしを示す「A」がずらりと並ぶと、かつて毛嫌いしていた成績表とは異なるのに、うっとりする。うっとりしてから、「なんでもない」と知るためだけにあんなに高額を払ったのか……とケチなことをちらりと思いもするが、でもやっぱり、うれしい。

 一度E判定が出たことがある。要医療である。中性脂肪値がとんでもないことになっていた。中性脂肪値が高い、というのは、血がどろどろということだと、調べてわかった。ところが落第点がついているドック結果もなんだかうれしいのである。自分の体の、知らないことがたくさん書かれているというのが、おもしろいのではなかろうか。

 さてその「要医療」であるが、私は急いで病院に赴き再検査をした。医師によると、「中性脂肪値は前日食べたものにけっこう左右されることがある」とのこと。人間ドックの前日は夜八時までに食べ終え、就寝時まで水しか飲んではいけないというのが通常だ。そういえばドック前日、前年それで腹が減ったからがつんとしたものを食べておこうと、がっしり肉を食べたのだった。しかもドックの朝、水も飲んではいけないというのに、クッキーをひとかけ齧かじったことまで思い出した。再検査ではかった数値は、低くはないが通常内になんとかおさまっていて、一安心した。

 このことがあって以後、人間ドック前の数日、酒量を減らし、野菜と魚中心の食事に変えた。いわばテスト前の一夜漬けである。この姑こ息そくな手段を使っている人はけっこう多くて、たがいに「おまえもか」ということがわかると、姑息具合を自慢し合ったりする。なかには、前日でも八時まではきっかり飲む、というつわものもいて驚かされる(もちろんその人は中性脂肪値も血糖値も尿酸値も、高くてはよくないものがほぼぜんぶ、高い)。

 今年は健診センターを替えてみた。今までは近所の病院が経営する健診センターだったのだが、知人に勧められ、都心の病院付属のところにいってみた。作務衣も、豊富な雑誌も同じなのだが、ここのマンモグラフィーは痛くなかった。終わりですと言われたときに、「手を抜いていませんか」と言いたくなったほどである。

 結果が送られてきた。今年はじめて、尿酸値が高いという結果が出た。え、何それ何それ、と早速調べる。私が理解したのは、この値が高くなりすぎると痛風になるらしい、ということ。ああ、そういう人、まわりにいるいる。男性に多いが、このごろでは女性編集者にも多い。痛風の発作が出てたいへんな目に遭っている男性もいる。この値を下げるには、プリン体を多く含む食品を避けること。ビール、魚卵、レバー、鮟肝(あんきも)、干物。好物ばっかり。

 同世代の友人知人と話すと、健康の話題が俄が然ぜん多くなった。「私この前はじめて尿酸値が……」と言い出そうものなら「おお、きたねきたね」「なかなかにおっさんらしくなってきたね」と、話が弾む。相手が「ガンマ値が……」と言い出そうものならすかさず「えっ、私なんか五十八」「何それあり得ない、ずるい」と、これまた話が弾む。十年前にはまったく知らなかった単語が、みんなの口からぽんぽん飛び出す。人間ドックは中年向けのコミュニケーションツールでもあるんだなあと、最近になってよく思う。

*   *   *

続きは、文庫『わたしの容れもの』でお楽しみください。

関連書籍

角田光代『わたしの容れもの』

人間ドックの結果で話が弾むようになる、中年という年頃。ようやくわかった豆腐のおいしさ、しぶとく減らない二キロの体重、もはや耐えられない徹夜、まさかの乾燥肌……。悲しい老いの兆しをつい誰かに話したくなるのは、変化するカラダがちょっとおもしろいから。劣化する自分も新しい自分。好奇心たっぷりに加齢を綴る共感必至のエッセイ集。

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角田光代

1967年神奈川県生まれ。90年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。「対岸の彼女」で直木賞、「ロック母」で川端康成文学賞、「八日目の蝉」で中央公論文芸賞、12年「紙の月」で柴田錬三郎賞、『かなたの子』で泉鏡花賞を受賞。他に『空の拳』など多数。

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