1429年、ジャンヌ・ダルクは神の声を聞いて救国の戦いに参加した。だがその神秘的体験は側頭葉てんかんの仕業ではなかったか? 1865年の南北戦争終結時、北軍の冷酷なグラント将軍が南軍に寛大だったのには片頭痛が関係していた?
世界の歴史を大きく変えたリーダー変節と、その元凶となった脳の病を、脳神経内科専門医の著者が世界の論文や文献をもとに解説した『世界史を動かした脳の病気 偉人たちの脳神経内科』(小長谷正明氏著・幻冬舎新書)。発売即重版となる大反響です。
今回はリーダーから離れ、歴史的有名人の病を紹介します。フェラーリには「ディーノ」というモデルがあります。これは夭逝したフェラーリ社の御曹司ディーノ・フェラーリの名を付けたモデルであり、彼の命を奪ったのは原則として男子に発症する難病でした。
病院に届くF1のエンジン音
筆者の病院がある鈴鹿は、言わずと知れたモータースポーツのメッカで、F1グランプリなどでワールド・フェイマスの町である。毎年秋になってF1レースの日本グランプリのシーズンに入ると、試運転やチューンナップするF1マシーンが発するエンジンの轟音が、サーキットから5、6キロメートルも離れたわが病院にも届いてくる。
つい数年前までは、ミハエル・シューマッハが赤いフェラーリのマシーンを駆って、前後10年間も勝利を重ね、エンブレムの跳ね馬のいななきが町中に響き渡っているようであった。そのフェラーリの一般向けスポーツカーに、ディーノ・フェラーリというモデルがある。ディーノはフェラーリ家の御曹司で、実は、この子はある難病にかかっていたのだ。
フェラーリ創業者の息子
幼いアルフレード・フェラーリは、レーシング・マシーンのドライバーを夢見ていた。アルフレードの愛称がディーノである。父のエンツォ・フェラーリは彼が赤ん坊の時からいつも、「お前は大きくなったらモーター・カーのドライバーになって、レースに出て優勝しろ」と語りかけていた。
エンツォは、かつてミラノのアルファロメオ社のテストドライバーをやっていたし、レースで走ったこともある。アルファロメオもイタリアの有名な自動車メーカーだ。しかし、その会社には、エンツォよりももっとカー・テクニックに勝るドライバーがいた。結局、彼はモーター・レーサーの道をあきらめて、アルファロメオのカー・レース・チームのマネージメント会社として、スクーデリア・フェラーリ(フェラーリ厩舎)を立ち上げた。
それでも、しばらくはレースに出て爆音を響かせていたが、3年後の1932年にディーノが生まれると、ドライバーからは足を洗った。果たせなかった夢を自分の代わりにその子に託すことにしたのだ。ディーノがハンドルを握り、メルセデス・ベンツにも負けないフェラーリのサポーティング・チームがディーノを支える……。
ところがディーノは体が弱かったのだ。本来ならば遊び盛りの幼児の頃も、いつまでもよちよちとバランスが悪い歩き方で、転ぶとすぐには立ち上がれなかった。どう見てもレーシング・マシーンの過酷なドライビングに耐えられるような体つきになりそうもない。小学校の終わりの頃には、歩くのもおぼつかなくなってしまった。そこで、父のエンツォは方針転換し、ディーノには頭で勝負してもらい、父の会社の跡とりにすることにした。
若くして筋肉が衰えていった
その頃、エンツォはアルファロメオ社と縁を切り、フェラーリ社独自のレーシング・マシーンの製造を始めた。1950年には、第1回のフォーミュラ1(F1)レースに参戦して、翌年には早くも優勝するという快進撃であった。
第二次世界大戦も終わって、世界は明るさを取り戻し、モータースポーツ愛好家も増えてきていた。エンツォは、優勝したマシーンをもとに一般向けのスポーツカーも開発して販売し、ビジネスも好調であった。そこで、ディーノには自分の事業を継いでもらおうと、スイスの学校で自動車工学を学ばせ始めた。
が、ディーノは筋肉が衰えて力がなくなって痩せ、体力がなくなって留学は2年しか続けられなかった。やむなくイタリアに戻し、大学で学ばせてからフェラーリ社に入社させた。そして、経験と知識をつけるために、1500㏄、6気筒のV型エンジンの開発チームに加えた。これは後にF2レース車のエンジンとして使われ、さらに後には大型の改良型がF1マシーンにも搭載された。が、これらの完成をディーノが見ることはなかった。
彼はデュシェンヌ型筋ジストロフィーと診断されて入院したが、最期の日の直前まで、病室で技術者と、6気筒エンジンについてディスカッションしていたという。1956年6月、アルフレード・フェラーリは24歳で他界した。
フェラーリ社は、志半ばで若くして逝ったディーノのメモリアル・カーを作った。駆け出しのエンジニアながらも、彼が開発に参加したV型6気筒エンジンを搭載したスポーツカーをディーノと名付けて世に出したのだ。
彼へのメモリアルはそれだけではなかった。エンツォは1978年にミラノ大学医学部の中にツェントロ・ディーノ・フェラーリ(ディーノ・フェラーリ・センター)という研究所を開設した。この研究所は筋ジストロフィーなどの難病の研究と啓発活動をしていて、イタリアにおけるその分野でのメッカとなっている。
ジストロフィーは“異栄養症”
筋ジストロフィーは、筋肉が障害されて萎縮し、筋肉の力がなくなっていく病気である。ジストロフィーとは耳慣れない言葉だが、無理に日本語に訳せば“異栄養症”で、発達が悪いという意味だ。体格が大きい人を栄養が良い、痩せた人を栄養が悪いと言うのと同じことである。筋肉の発達が悪いので、立ち上がったり、歩いたりすることもできなくなり、手の力も失われ、そしてどんどんと進行していく。
重症型のデュシェンヌ型筋ジストロフィーでは、赤ちゃんの頃に歩き始めが遅れ、いつまでも不安定なヨチヨチ歩きで、10歳頃には歩けなくなって、車椅子生活になってしまう。原則として男の子だけに発症する伴性劣性遺伝の病気である。ディーノはデュシェンヌ型と言われているが、父やフェラーリのエンジニアと一緒にエンジンを囲んでいる20歳頃の彼の姿は、背筋をきちんと伸ばして立っているので、デュシェンヌ型ではなく、同じ遺伝子異常だが症状の軽いベッカー型だったのかもしれない。
人工呼吸器療法で10年以上寿命が延びた
可哀想なことに、このデュシェンヌ型筋ジストロフィーの患者さんたちは20歳そこそこで亡くなってしまう。というのは、この病気では手足の筋肉だけではなく、呼吸のための筋肉や心臓の筋肉も障害されるからなのだ。呼吸が弱くなった若い患者さんを、ナースたちが交代で、休むことなく1年以上も胸を押し続けて人工呼吸を施したという話が、筆者の病院でも語り継がれている。
事態が大きく変わったのは1990年頃で、小型で廉価な人工呼吸器が使われ始め、呼吸不全で亡くなる人が激減した。最近になって調べてみると、人工呼吸器の装着により、統計では33歳前後までと、以前に比べて10年以上も寿命が延びており、最も高年齢の人は48歳にもなっているし、どんどん更新しそうだ。
電動車椅子の普及も革命的であった。NASAが開発した加重分散する低反発クッションに座り、わずかな力で反応するジョイスティックを使って自由自在に操縦し、高速でスラローム運転さえしている。ディーノ・フェラーリがうらやむような病院の暴走族すらいる。
極めつきはインターネットだ。コンピューターのキーボードやタッチ・パネルを、わずかに動く手や舌、顔の筋肉を使って操作したり、モニター上のキーボードに目をやるだけでできる視線入力をしたりして、日本中、時には海外ともメールを交換し、ホームページにアクセスしている。
このように、21世紀のテクノロジーに支えられて、患者さんたちの世界は、三次元空間だけでなく、時間的にも、精神的にも、五次元にわたって大きく広がっている。
男子だけに発症する遺伝疾患
筋ジストロフィーは遺伝疾患である。デュシェンヌ型は色覚異常や血友病などと同じく、性染色体劣性遺伝と言われる遺伝形式で、原則として母親を通じて遺伝して男の子だけに発症する。
染色体とは、遺伝子の情報が書き込まれているDNAの塊であり、ヒトの場合は一つの細胞に46本ある。2本でペアになっているのが22組あり、これらを常染色体という。
1本の常染色体に書き込まれた遺伝子情報に異常があると出てくる病気を「常染色体優性遺伝疾患」といい、ハンチントン病などで、親から子へと遺伝する。また、ペアになった染色体の両方に異常な遺伝子情報があると出てくるものは「常染色体劣性遺伝疾患」といい、近親婚などで出やすい。
性染色体というのは、X染色体と小さなY染色体とがあり、女性の細胞にはX染色体が2本、男性の細胞にはX染色体は1本で、それに小さなY染色体がある。このX染色体に異常な遺伝子があると、1本しかない男性には病気が出てくる。
X染色体が2本ある女性は、異常なX染色体の悪い情報を、もう片方の正常なX染色体の遺伝子がカバーするので、病気にはならないか、なっても軽い。なお、Y染色体には遺伝情報は少なく、細胞や体を男性型に方向付けるのが主な役割である。
遺伝子治療の道が開けつつある
デュシェンヌ型は、1986年に最初に遺伝子異常が分かった病気で、ジストロフィンというタンパクができないために、筋肉が壊れていくのだ。ジストロフィンは筋肉の細胞膜と、細胞の骨格を作っている構造との間を結びつけ、外からの力による衝撃を和らげるショック・アブソーバー(緩衝器)の働きをしている。調べていくと、他のタイプの筋ジストロフィーも、このジストロフィンと接続する部位のタンパクの異常があることが分かってきた。
しかし、遺伝子の異常や欠損するタンパクが分かっても、なかなか遺伝子治療は進まなかった。ジストロフィンの遺伝子は、人体で2番目というほどに大きな遺伝子なので、外から細胞内に持ち込むことができないのだ。
21世紀になって間もない頃に、ジストロフィン遺伝子障害のビーグル犬に、エクソン・スキッピング法という、遺伝子の異常部分を働かなくさせる方法による遺伝子治療を施しているDVDを見た。ヨチヨチと危なげに歩いていた子犬が、治療をされると、いかにも歩くのが楽しいと言わんばかりに、研究者の後を小走りで追いかけていた。
筋ジストロフィーの遺伝子治療ももうすぐだと、筆者は興奮しながら画面に見入ったものだ。
それから10年以上経った2016年の9月にやっと、アメリカの食品医薬品局が治療法として認めた。実験動物とちがって、新しい治療法を患者さんに使って失敗したら、取り返しのつかないことになるので、慎重に慎重を期してトライアルされていた。また、ジストロフィン遺伝子の異常の部位は人によってちがっており、その人に応じた薬品を新たに作らなければならないので、どこでも誰にでも治療できるというのには、まだまだ時間がかかりそうだ。
しかし、神経難病では初めての遺伝子治療の道が開けたのだ。これからが楽しみでもある。
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