「男らしさ」「女らしさ」の価値観の押し付けは、あからさまに目の前に現れる場合もあれば、なんとなく腑に落ちないかたちで影を残すこともあるでしょうか。うまく言語化できないけれど、「あれ、なんかおかしいこと言われたかも?」とモヤモヤが残ったら、まずはその違和感を見つめましょう。「それが自分を取り巻く社会の『謎』を解く鍵になる」という宮崎智之さんの提案が今あらためて胸に響きます。
古い常識と新しい常識が混在する時代の違和感を集め、分析した文庫『モヤモヤするあの人~常識と非常識のあいだ~』が好評2刷となりました。それにしても、著者の宮崎智之さんは、なぜ、「モヤモヤ」を言語化することにこだわるのでしょうか? そこには意外な原点がありました。
物書きとしてのスタンスを決めた「赤いカーディガン事件」
まだ僕が会社員だった頃、ある年長の男性上司にこんな話を聞いた。地方の小学生だった上司は、姉からもらったおさがりの赤いカーディガンを着て登校したことがあるという。姉がお気に入りだったカーディガン。意気揚々と校舎に入ろうとしたところ、男性の先生に呼び止められて、「男のくせに、赤いカーディガンなんて着やがって! 家に帰って着替えてこい」と怒鳴られ、頭を殴られたというのである。
僕は、この話にこれまでの人生にないほど、強い憤りを覚えた。いくら古い昭和の時代のことだったとはいえ、さすがに理不尽すぎる。なぜ、男が赤いカーディガンを着てはいけないのか。むしろ、お洒落でイケているファッションではないか。この原稿を書いている僕も今、ピンクのTシャツを着ている。上司は非常にリベラルな人で、自分の意見を人に押し付けるタイプでもない。社会人の生活がまだままならない僕を、よく趣味のジャズライブに連れて行ってくれたりして、「大人」になることの楽しさを教えてくれた人でもあった。
僕は、同世代のほかの書き手ほど強い正義感を持っていないのではないかと密かにコンプレックスを抱いているのだが、この「赤いカーディガン事件」のことは、いまだに深く心に刻まれている。マスコミの仕事を長くしている今の上司ならば、その男性教員にいくらでも反論できるだろう。しかし、当時はまだ子どもである。おかしいと思っても、どうしても言語化できない。モヤモヤだけが残るのだ。僕の大好きだった上司が、そういう状況に追い込まれたことに対し、怒りと悲しみを感じている。
当然、「赤いカーディガン事件」は、ジェンダーの問題でもある。現代社会で議論されるべき、重要な問題だ。しかし、当時はそれを言語化して議論されることが、今よりも少なかったのである。
そして、僕はこの事件を通して、あることを体感的に学んだ。モヤモヤを言語化しないと、いつのまにかそれが是とされ、自分も周囲の人間もなんとなく受け入れてしまうということを。モヤモヤを言語化して、議論の俎上に乗せることが、まずは重要だということを。これが物書きとしての僕のスタンスになった。
日常生活は「モヤモヤ」で溢れている
「赤いカーディガン事件」ほど重大で、理不尽な問題ではなくても、日常生活にはモヤモヤがたくさんある。いちいち言語化するほどのことではないこともたくさんあるが、僕はなるべくそういうことをスルーしないように心がけている。どんな小さなモヤモヤでも、押し黙って受け入れたりはしない。
たとえば、本書にも収録した「スーツにリュックは失礼なのか?」という問題。注意深く街を観察している人ならわかると思うが、スーツ姿には手提げタイプのカバンが定番だったものの、最近ではリュックを背負うビジネスパーソンが増えている。特に2011年の東日本大震災以降は、自転車通勤が流行ったこともあり、両手の自由が確保できるリュックが「防災グッズ」としても認知され始めた。
いきなり話の重要さが変わって戸惑う方もいるかもしれないが、「スーツにリュック」の問題は、人々の“常識”をめぐる問題に深く根ざしている。実際に「スーツにリュックは営業先に失礼」と考える人もいて、年配のビジネスパーソンほど、その比率が高い。流行の裏で、常識と非常識が衝突している。
もう少し社会的な話題に戻るならば、最近では「フォトハラスメント」という言葉があるそうである。SNSの普及により、インターネット上に顔写真をアップすることに対して、抵抗感のない人が増えてきた。しかし、その一方で、自身の写真を無断でアップされる行為を「ハラスメント」と感じる人も出てきている。
しかも、SNSには「タグ付け」という機能があり、その写真に写っている人が誰かまでわかってしまう場合がある。実名やプロフィール登録が基本のフェイスブックでは、家族や勤務先、学歴などの情報が知らない他人に知られてしまうこともある。警戒感を抱く人がいることも理解できよう。
それだけではない。たとえば、ビジネス上の理由で競合他社に自分が参加していることを知られたくない会合の写真を、勝手にアップされたらどうだろうか。さらに、写真をアップした本人は綺麗に写っていても、自分が目をつぶっていたり、変な顔をしていたり、端っこに顔が歪んで写ってしまっていたりしていたら、どう感じるだろうか。そうした些細なことが、トラブルの原因になることもある。
せめて、「この写真をSNSにアップしてもいいですか?」と聞いてほしいものだが、それが集合写真だったりした場合、自分だけ「僕はNGでお願いします」とは、なかなか言いづらい。芸能人気取りの自意識過剰な人物と思われるのも嫌だし、その場の空気を悪くしたくないと忖度する人もいるだろう。
自分と社会の謎を解く鍵は、すぐそこにある
そうした些細なモヤモヤにこだわるスタンスに対し、「一体なんの意味があるのか」と疑問に思う人も多いことはわかっている。しかし、それでも僕は提案したい。「もっと、みんなモヤモヤするべきだ」と。
モヤモヤすることをスルーせずに受け止め、自分の言葉で言語化してみることによって、自分がどういう価値観を持っているのか、どういうことに憤りを覚えるのか、社会の“常識”とどのように距離をとって生活しているのか。そういったことがクリアになり、より現実の解像度が高まってくるからだ。
恋バナ収集ユニット・桃山商事代表の清田隆之さんは、cakesに寄稿したコラム「わかりやすさを捨て、モヤモヤ耐性を身につけよう」 のなかで、「現実を直視するというのは、とにかくモヤモヤする行為」と記している。僕は、この指摘に100%同意する。さらに僕なりに付け加えるならば、「モヤモヤ耐性をつけることこそ、変化の激しい現代社会を生き抜くために必要なことである」と指摘したい。
僕は「赤いカーディガン事件」により、自分が何にモヤモヤするのか、明確に意識をすることができた。それは、思考停止による価値観の押し付けである。僕はそうした圧力に、これからも抵抗していきたいと思うし、それが自分や自分を取り巻く社会の「謎」を解く鍵になると、真剣に信じている。
いつも軽いタッチでコラムやエッセイを書いている身としては、これ以上、難しいことは言いたくない。
最後に一言だけ。
たとえあなたが、大文字の「政治」や「社会」を公の場で語ることが立場上できなかったり、そうした勇気がわかなかったりしたとしても、日常生活で覚える違和感を表明することはできる。それだけでも、十分に意味がある行為だと思う。それが自分の内面や社会を見つめ直すことにつながっていくからだ。
もし、それでもモヤモヤを表明することで生じる軋轢が怖いという人がいたなら、ツイッターでもメールでもいいので、ぜひ僕に教えてほしい。一緒に考え、大いにモヤモヤしていこうではありませんか。
……さらなるモヤモヤは、『モヤモヤするあの人』をご覧ください。……
モヤモヤするあの人
文庫「モヤモヤするあの人」の発売を記念したコラム
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