異様な静けさと得体の知れない緊迫感。スリリングな冒頭から、あなたはもう一瞬も目が離せない……
プロローグ
新しい上司に命じられ、男は目の前の液晶モニターを凝視する。その途端、壁に埋め込まれたスピーカーから無線が響く。
〈お客さんが改札出ました。明治屋に向かいます〉
ダークグレーのスーツを着た女が映ると、男は思わず口元を手で覆う。なぜこんな場所にいるのか。サングラスをかけているが、男がよく知る女だ。
改札を出た女は、やや早足で歩き始める。
「彼女の後方三メートルのところに、隠しカメラを持った要員がいるんだよね」
抑揚を排した声で上司が告げる。
腫れぼったい瞼(まぶた)だが、奧にある瞳は鈍い光を発し続け、モニターを睨(にら)む。男は動揺を悟られまいと、必死に呼吸を整える。
宅配業者を装った大型バンの車内で、男は画面を見続ける。
いきなり広尾に呼び出された理由が分からなかった。モニターに映る光景が答えなのだ。新しい職場は、自分になにをさせるのか。
女を追うカメラが二、三度揺れる。自分の心が鷲掴(わしづか)みされたような錯覚に陥る。だが、実際は女の異変が揺れの根源だった。
交差点の信号が青にも拘(かかわ)らず、女が突然歩みを止める。否応なく、カメラ要員も足止めを食らう。買い物客やサラリーマンが激しく行き交う交差点で、女はなんども周囲を見回す。
〈お客さん、点検始めました。脱尾します〉
スピーカーから無機質な声が響く。
「次の人頼むね。気付(ヅ)かれちゃだめだよ」
上司が指示を発した直後に信号が点滅を始める。女は赤に変わる間際の横断歩道を駆け足で渡る。
「でも、所詮は素人なんだよね」
上司が吐き捨てるように言うと、スピーカーから新たな要員の声が響く。
〈明治屋のロビーで待機中、こちらで追尾します〉
同時にモニター画像も切り替わる。女をスーパーの中から待ち受ける構図だ。
女は混(こ)み合う高級スーパーに入った。生鮮食品売場を五分ほどそぞろ歩くと、今度は売場の外れに向かう。
待機中という言葉は、追尾チームが女の行動パターンをある程度把握しているということだ。いつから監視を続けていたのか。男が首を傾(かし)げると、真横の上司がマイクを握る。
「トイレに行くみたいだね。カバーできる?」
〈私が追尾します。トイレの出入口は一カ所のみで、カゴ抜けは不可能です〉
今度は若い女の声が響く。追尾要員が再度交代した。広尾駅から既に三名がサングラスの女に張り付いている。
スピーカーからは水道の音が聞こえる。カメラが女の後ろ姿を捉えたあと、今度は斜め横のアングルから洗面台と鏡の中が映る。
サングラスを外した女が口紅を塗り直す。モニター越しだが、かすかに瞳が潤んでいるように見えた。
上司が手元のスイッチを切り替えた。別の要員への連絡だ。
「商店街担当、もうすぐお客さんが行くよ」
〈いつでもどうぞ〉
スピーカーから嗄(しゃが)れた男の声が聞こえる。女が高級スーパーを後にした。
買い物客でごった返す夕暮れの商店街にまで人員が配置されている。監視要員はこれで四人目だ。男は画面を凝視し続ける。追尾カメラは外苑西通りから広尾商店街の奥に向かい始める。
女は明らかに歩みを速める。
一方、男は膝に置いた拳に目を向けた。
自らの意思とは関係なく、拳が小刻みに震える。もはやモニターを見る気力が残っていない。目線を外した途端、上司が抑揚のない口調で告げた。
「見続けてね。瞬(まばた)きも許可しないから」
素っ気ない言いぶりだが問答無用の力が籠(こも)る。金縛りにあったように、男は肩に震えを覚えた。
「もう勘弁してください」
駄々をこねる子供のように強く頭を振る。自分の声が絶え絶えになっていくのが分かる。
「だめだよ。これは命令だからね」
凍(い)てついた声だ。男は恐る恐るモニターに視線を戻す。
〈店に入ります〉
直後、女が酒屋の手前で左に折れた。
「準備は大丈夫?」
〈秘撮、秘録ともに万端です〉
今度はよく通る若い男の声だ。これで五人目になる。
新しい配属先は、どれだけのメンバーを揃えているのか。ここまで徹底して追尾する理由はなにか。男が秘かにモニターから視線を外すと、上司の手が男の肩にのった。鉛の塊を落とされたような重みを感じる。
「これから見る光景を全て瞼に焼き付けておいてね」
上司が切り替えボタンを押すと、白木のカウンターと大きな湯呑みが映る。寿司屋のようだ。カウンター近くに置いたバッグから、店の奥方向を見渡せるアングルだ。引き戸の音が響く。女が入ってきた。
〈いらっしゃい。お連れ様は少し遅れるそうです。お先にビールでも?〉
〈いえ、待ちます〉
女の声が少しだけ上ずる。
カメラは女の胸元を映し出しているが、アングルの関係で表情は見えない。だが、男には女の表情が手に取るように想像できる。
「今日は浜松で親戚の法事のはずだよね?」
上司の問いかけに頷いたとき、再び引き戸が開いた。
〈こんばんは〉
低音が響く。マイクの方向が悪いのか、連れの声は極端に聞き取りづらい。
「絶対に目を逸らしちゃだめだよ」
上司の声が鼓膜を鋭く刺激する。
女の奥側に連れの男が座った。スーツの胸元だけが映る。連れはおしぼりでゆっくりと手を拭いている。
〈今日は平気なんですか?〉
女が甘えた調子で尋ねると、連れの男が小さく頷く。すると女がカウンターの下に手を回し、男の分厚い掌(てのひら)をまさぐる。
女の動作で、また心臓を鷲掴みされた感覚に襲われる。不意に、胃液が喉元まで逆流する。男は慌ててドアを開け、バンを飛び出した。
喉元がヒリヒリと焼ける。胃液をなんとか腹の底に押し戻すと、上司の容赦ない声が耳元で響く。
「やめさせないよ。早く戻って。次の指示出すからさ」
「もう無理です」
「だめだよ」
上司はさらに強い口調で言う。男は上司の手招きに応じてバンに戻る。
「相手は誰ですか?」
「現段階で知る必要はないね」
「しかし、妻は本職(ほんしょく)に嘘をついているんです」
「いずれ分かるときが来るから」
腫れぼったい瞼の奥で、瞳が鈍い光を発する。上司が言葉を継ぐ。
「任務に私情はいらない。今までの君は死んだよ」
雷に打たれたように男は硬直した。死んだとはどういう意味か。
「生まれ変わるんだ」
再度上司が言い放つ。
「見てごらん」
画面に目をやった。カウンターの隅で、妻が連れの男に体を寄せる。
「もっと見て」
頬が引きつっていくのが分かる。だが、上司に抗わない自分がいた。無意識のうちに体と意識が乖離(かいり)していく。
この屈辱を一生忘れない。自らの眦(まなじり)がキリキリと音を立てて切り裂かれていく。胸の中に響く軋(きし)んだ音を聞きながら、男は画面の妻を睨み続けた。
本記事は幻冬舎文庫『血の轍』(相場英雄 著)の全524ページ中7ページを掲載した試し読みページです。続きは『血の轍』文庫本、または電子書籍をご覧下さい。