“戦争は、ある日突然に天から降ってくるものではない。長い長いわれわれの「知らん顔」の道程の果てに起こるものなんである”――半藤一利さんの80冊を超える著作の中からそのエッセンスを厳選・再構成した『歴史と戦争』。本書から一部を抜粋してお届けします。
※この記事は、2018.08.15に公開されたものの再掲です
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「平和憲法」のこれから
明治時代、国家目標は富国強兵であり、国家の機軸──国をつくるためには、皆が心を一つにして同じようなことを考え同意することができる軸が必要なのです──は立憲天皇制でした。国家をつくるにあたっての一つのシステムとして非常にうまく機能したと思います。
戦後日本について言いますと、国家の機軸は憲法にある平和主義だったと思います。これに関して日本人はかなり一致して受け入れただけではなく、それを進んで喜びとするようになった。鳩山さんや岸さんの主張する改憲・再軍備にはノーと言ったのです。
また国家目標は、一九六〇年代の後半からは軽武装・経済第一主義とし、これもまた完成しました。そして現在となるわけです。
じゃあバブル崩壊後の今の私たちの国家目標は何か、ありません。では機軸は何か。私は平和憲法でいいと思うんです。が、嫌だという人が多いんですね。早く憲法を改正して、軍隊をもつ普通の国にしようという意見が多いと新聞などが報じています。
(『昭和史 戦後篇 1945-1989』)
若いあなたに伝えておきたいこと
今の日本は、戦後ずっと意思統合をしてきた「軽武装・経済第一」の吉田ドクトリンの分解がはじまっているようです。いい加減に戦後の経済主義を卒業したらどうか、の声が高まっています。いや、平和的発展路線をさながら欠陥品のようにみなす人も増えています。
このままひたすら世界平和のために献身する国際協調的な非軍事国家でいくか、いやいやそれはもう時代遅れも甚だしい、これからは平和主義の不決断と惰弱を清算して、責任ある主体たれ、世界的に名誉ある役割を果たせる「普通の国」にならなければならない。この二つです。
その選択は、まさに若い皆さん方の大仕事というわけです。ロートルには発言権はないと考えます。
(『昭和史 戦後篇 1945-1989』)
歴史はくり返すのか?
幅広く語ったつもりでも、歴史とは政治的な主題に終始するもんだな、ということである。
人間いかに生くべきかを思うことは、文学的な命題である。政治的とは、人間がいかに動かされるか、動かされたか、を考えることであろう。戦前の昭和史はまさしく政治、いや軍事が人間をいかに強引に動かしたかの物語であった。戦後の昭和はそれから脱却し、いかに私たちが自主的に動こうとしてきたかの物語である。
しかし、これからの日本にまた、むりに人間を動かさねば……という時代がくるやもしれない。そんな予感がする。
(『昭和史 戦後篇 1945-1989』)
このままでは日本は滅びる?
二十一世紀になったらいっさい贅沢と縁を切り、余計なことをやめる。自然をこれ以上壊さない。現状で止めることです。国民全員が合意しないまでも、九千万人ぐらいは現状維持に賛成なんじゃないかと思うんですね。これでおしまいにしとかんと、この国はまた滅びますね。
(『歴史を記録する』、吉村昭氏との対談で)
「あきらめ」がふたたび戦争を招く
戦争は、ある日突然に天から降ってくるものではない。長い長いわれわれの「知らん顔」の道程の果てに起こるものなんである。
漱石が『吾輩は猫である』八章でいうように、「すべての大事件の前には必ず小事件が起るものだ。大事件のみを述べて、小事件を逸するのは古来から歴史家の常に陥る弊竇である」、つまりでっかい事件にのみ目をくれているのはみずからが落し穴に落っこちるみたいなもの、日常座臥においておさおさ注意を怠ってはならないのである。そのつどプチンプチンとやらねばならない。
いくら非戦をとなえようが、それはムダと思ってはいけないのである。そうした「あきらめ」が戦争を招き寄せるものなんである。
(『墨子よみがえる』)