好評2刷の文庫『モヤモヤするあの人~常識と非常識のあいだ~』。著者の宮崎智之さんは、アルコール依存症と診断され、現在は断酒中ですが、以前はよく「酒場」でモヤモヤを収集する活動をしていたそうです。そんなある日のエピソード。
舌の根の乾かぬうちに
それは年の瀬の下北沢だった。僕はジムで汗を流した後、三省堂書店まで歩いていた。平日の麗らかな午後だった。
三省堂書店に行く途中に、昼間からあいている飲み屋がある。ジムに行ったおかげで前日の酒が抜け、心身ともに健全だった僕は、そんな大魔境には目もくれず颯爽と通り過ぎようとしたのだが、ふとカウンターで飲んでいる男(50代くらい)に目がいった。その風貌が異様だったからだ。
顔は一面、ガーゼだらけ。頭は包帯でぐるぐる巻きにされている。傷はまだ新しそうだ。いかにも痛々しそうな状況なのにもかかわらず、昼間から一人で日本酒をあおっているこの男は何者なのか。いったい何があったというのか。
おそらく、前日に酔っ払って喧嘩でもしたのだろう。相手は、若い劇団員かバンドマンだったはずだ。勢いよく絡んだはいいが、酒で足元がおぼつかない男は、ボコボコに殴られた違いない。それも一方的に。
年末で忙しいというのに、お巡りさんも大変だ。呂律の回らない男の言い分を一通り聞き、「で、どうするの? 被害届出すの?」と聞いたことだろう。「出さないなら、お巡りさんもう帰るよ。おとうさんにも悪いところがあったんだから、反省しなきゃダメだからね。あんまりお酒は、飲まんがいいよ」
それでも気が収まらない男は、ぶつぶつ文句を言いながら家路を歩く。路上に転がっている空き缶を蹴り、バランスを崩して転ぶ。見上げた夜空には丸い月。「あんまりお酒は、飲まんがいいよ」。そんなことはわかってるよ、バカヤロー。
そして、数時間後の姿がこれである。
男はニヤニヤしながら酒を飲んでいる。痛みは酒で散っている。ざまあみやがれ。俺を誰だと思ってやがるんだ。
「舌の根の乾かぬうちに」
僕の頭の中に、ふとそんな言葉が浮かんだ。今までの人生で一度も使ったことがない言葉が、頭の中に浮かんだのである。
「舌の根の乾かぬうちに」
手元のiPhoneで検索してみると、「少しも間をおかずに、違うことを言う様」という意味らしい。「言ったそばから」と言い換えることもできるという。
思想家の東浩紀さんは、『弱いつながり』(幻冬舎)のなかで「言葉にできないものを言葉にするための体験」が重要だとしている。それはすなわち「新たな検索ワードを探すための旅」であり、だからこそリアルな場で見ることが大切なのだ、と。
包帯の男を発見してから抱いていたモヤモヤが、一つの言葉で一気に晴れるような感覚を覚えた。「舌の根の乾かぬうちに」。この言葉を僕は探していたのだ。
新しい検索ワードを獲得した僕は、男に話しかけることはせずに、三省堂書店に向かった。そして、せっかくジムに行って健康的になったのにもかかわらず、夜にはまた酒を飲むのであった。
しかし、一つだけ言いたい。僕はあの男と違って、お日様が沈んでから酒を飲んでいる。小さいようで、そこには天と地ほどの差があるのだ。少なくても僕は、舌の根が乾いてから酒を飲んでいるのである。昼間はなるべく酒を飲まない。この発想は、我ながら天才的な所業だと思っている。
「あんまりお酒は、飲まんがいいよ」。わかってるよ、バカヤロー。
追記:著者はこの数ヶ月後、お酒の飲み過ぎで入院しました。
モヤモヤするあの人
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