「植民地」としての九州
今回は、くまモンが跳梁跋扈し、県外からの観光客数が3000万人に迫る熊本県を中心に、九州西部のダークツーリズムについて考える。本章では、水俣、合志、三池という3カ所のダークツーリズムポイントを設定し、個別に考察を試みた後、ダークツーリズムポイントとしての熊本を、“近代”の視点から俯瞰する。
古代史を顧みれば、邪馬台国九州説は多少分が悪くなったといえども、いまだに唱える人々は多く、古事記の里としての宮崎は大きな存在感を示している。しかし、水俣病を研究してきた医師である故原田正純博士は、九州を戦後の日本の植民地であるという捉え方をしている。戦後の日本は植民地を失ったものの、工業化を進めざるを得ず、その矛盾が九州に集中したと彼は述べる。
私は、もう少し広いスパンで歴史を見たとしても、九州は明治以降、今に至るまで、近代化のツケを払わされてきたと考えている。それは、初期段階では西南戦争であるが、今回扱う水俣病、ハンセン病問題、炭鉱問題などの諸課題は、国家の近代化政策にともない、いわば必然的に登場してきた論点である。
私は、これまで九州に限らず、日本中のダークツーリズムポイントをかなり歩いてきた。北海道や東北も、近現代史における権力側からのしわ寄せは確かに存在するのだが、九州、とりわけ熊本が非常に厳しい状況に置かれてきたことについて例を挙げつつ述べていきたい。
“社会の病”としての水俣病
2013(平成25)年4月上旬、筆者は3泊4日の日程で、熊本を中心とする九州西部の調査に赴いた。予定としては、水俣病関連施設、ハンセン病療養所である菊池恵楓園と附属の歴史資料館、さらに旧三井三池炭鉱を見て帰るという計画であった。
朝、非常に早い便で大阪を発ち、鹿児島空港に到着した私は、調べておいた路線バスに乗り、新水俣の駅に向かった。普段都会にいると、あまり気づかないことであるが、山間部を走るバスの車窓からは、老人ホームやデイサービス・センターがたくさん見え、地方都市における高齢化の深刻さを感じる。非常に本数の少ないバスであるものの、山の中の停留所からポツポツと高齢の乗客が乗ってきた。
ただし、乗客は大きな総合病院の停留所で大部分が降りてしまい、水俣市内まで乗っていた者は、私を含め少数であった。市街地に入る手前の、新幹線専用の駅である新水俣で降り、予約しておいたレンタカーを借りた。水俣病資料館と水俣病情報センターを見るだけであれば、レンタカーは不要であるが、今回は民間ベースで水俣病患者への支援を展開している相思社を見学しておきたく、レンタカーを使うことにした。
水俣病情報センターへ行く途中、徳富蘇峰・蘆花生家に立ち寄り、少々見学をする。徳富蘇峰は、日本初のジャーナリストと一般に言われており、メディアに興味のある人は一度訪れてもよいかもしれない。
公的な施設としては、市街地から2キロぐらいのところに、国立水俣病情報センター、熊本県環境センター、水俣市立水俣病資料館が集中している。国・県・市が一体となって水俣病の問題に取り組もうとしていることが窺える。この三者の役割分担はかなり明確で、国のセンターは研究者を中心とした理科系の利用者を想定し、県がリサイクル等の通常の環境学習を担い、そして市の資料館はまさに水俣病について一般の人々が学ぶ施設となっている。したがって、具体的なプランニングとしては、ダークツーリストは、市の資料館を中心に学ぶこととなる。
水俣病の資料館は、水俣病というものが、単に医学的な意味での病気にとどまらず、ある種の社会的な病であることを教えてくれる。高校の教科書にあるとおり、「株式会社チッソの出す廃液の中にメチル水銀が含まれており、その水銀が生物濃縮によって魚の中に蓄積され、それを食べた漁民の間に神経症状が出た」という理解は誤っていない。問題なのは、その病気が起きた地で、社会がどのような変化をたどったのかを、都市の人間はこれまでほとんど知らないで過ごしてきたという点である。
水俣病が公式に確認され、社会問題化した昭和30年代、水俣市において漁業者は相対的少数者であった。水俣市はチッソの企業城下町であり、水俣市の財政も社会的活力もチッソによって保たれていた。水俣病は、少数者(マイノリティ)が体制(エスタブリッシュメント)と対立したという構造を持つ。
病に苦しむ人々は、チッソや行政を相手に、長い間裁判を続け、救済の枠を広げてきた。その過程では、心ない人々から「患者のふりをしているのではないか」といういわゆる“ニセ患者”の言葉を投げつけられ、深く傷ついた方も多い。公害が社会問題化するにつれ、チッソの操業は縮小されていき、街も寂れることとなった。水俣の地で、コミュニティの崩壊が起こってしまったのである。
本書を読んでいる若い人々は、義憤に駆られて、「公害を出すような不見識な企業は潰してしまえ」と言うかもしれない。しかし、現在に至るまで患者救済の原資はチッソが担っている部分もあり、この会社がなくなってしまうと、患者を経済的に支えることが難しくなる。チッソが存続することで、患者の経済基盤も維持されるという矛盾した状況がここにはある。
資料館の展示を見ると、公害問題というのは、単に、自然科学的な面からの考察だけでは不十分であり、地域と患者を支えるための経済学や社会学、企業や行政の責任を追及するための法律学、これからの世界をどう作るのかという政策学などの幅広い知識を結集しなければならないということが見えてくる。
一旦コミュニティが瓦解した水俣に転機が訪れるのは、1995(平成7)年以降である。社会党のトップが首相になった“自社さ政権”(自由民主党、日本社会党、新党さきがけによる連立政権)の尽力により、水俣病の政治解決が図られた結果、救済の扉が一気に開いた。それ以降、当時の吉井市長は、「もやい直し」という表現を使い、コミュニティの再生に心血を注いだ。
現在の水俣は、先進的なエコタウンとして再生し、国の内外からの視察が絶えない。海も綺麗になり、漁業も再開された。患者救済の論点は、現在進行形でまだまだ残るが、水俣が乗り越えてきた課題は多く、訪れることで、この地が克服した困難を実感することができる。日本では、外せないダークツーリズムポイントである。
(『ダークツーリズム』第五章「水俣病、ハンセン病、そして炭鉱労働の記憶――熊本」より抜粋)
<お知らせ>
9月1日17時~、幻冬舎にて、井出明さんの「ダークツーリズム入門講座」を開催します。詳細は、下記をご覧ください。