最強にして最悪といわれる3人の独裁者――ヨシフ・スターリン、アドルフ・ヒトラー、毛沢東。彼らの権力掌握術について徹底的に分析した『悪の出世学』(中川右介著)。若いころは無名で平凡だった3人は、いかにして自分の価値を実力以上に高め、政敵を排除し、トップへのし上がっていったのか。その巧妙かつ非情な手段と、意外な素顔が明らかになる……。そんな本書の一部を、抜粋してご紹介します。
死ぬまで権力を維持できた理由
中華人民共和国の臨時の議会として、中国人民政治協商会議が開かれ、憲法ができるまでの暫定的なものとして「共同綱領」が作られた。この協商会議は、党派代表が一六五名、地区代表が一一六名、軍の代表が七一名、人民団体代表が二三五名という構成で、合計五八七名、そのうち党派代表は、一六五名のうちの一四二名が正式代表で、共産党はその中の一六名に留まった。少数派だったのだ。
それでも、内戦で勝利したのは紅軍の功績が大きいので、中央人民政府主席には毛沢東が、行政機関である政務院総理(首相)には周恩来が就任した。だが、中央人民政府副主席六名のうち半数は非共産党員で、副総理・閣僚ポストの半数近くも非共産党員という構成でスタートした。
毛沢東の「前半はよかった」とされるのは、このあたりまでだろう。
建国後の毛沢東は大躍進の失敗と文化大革命という歴史的失政によって歴史に刻まれ、「後半は悪かった」と評価されることになる。もっとも、そのような批判は死後のことだ。毛沢東は死ぬまで権力と権威を維持し、秦の始皇帝以来の歴代の中国皇帝のなかでも最大最強の権力者、まさに最後の皇帝として天寿を全うする。
どうやって彼は失政を誤魔化し、生き延びたのであろうか。「出世」した後の身の処し方の最も成功した例(国民にとっては災厄以外のなにものでもなかったが)として、記していこう。
毛沢東が仕掛けたワナとは
毛沢東と中国共産党は、まずは民主主義社会の建設を目標にし、社会主義への移行は、「かなり遠い将来」であるとしていた。だが、一九五三年九月に、毛沢東は社会主義への移行を表明した。それは唐突だったので、共産党内でも周恩来や劉少奇などは驚いた。国民はもっと驚くが、毛沢東はソ連をモデルにした第一次五カ年計画をスタートさせた。あれほどソ連を批判していたのに、建国後は、それを手本にするのである。こうして農業の集団化が推進される。
建国から五年後の一九五四年九月には、全国政治協商会議に代わる最高権力機関として全国人民代表大会が設置され、中華人民共和国憲法が制定された。この憲法には国家主席というポストが設置され、毛沢東が就任した。国務院総理(首相)には周恩来、全人代常務委員長に劉少奇、国家副主席には朱徳、国務院副総理は一〇名だったがすべて共産党員となり、それ以外の要職もほとんどを共産党員が占めるようになった。
当然、国民からの反発が予想された。そこで毛沢東は一九五六年四月から中国共産党への党外からの批判を大歓迎するという「百花斉放、百家争鳴」運動を始めた。
ようするに、大論争をしようという運動である。
だが、この運動は警戒されたのか、盛り上がらなかった。そこで五七年になると、毛沢東自ら「マルクス主義が批判を恐れるのなら、それは恐れることが間違っている」「いかなる幹部、いかなる政府であろうと、欠点や誤りについては批判を受けるべきだ」と演説し、党員ではない学者や文化人に、「もっと大胆に党の欠点を暴き出してほしい。党は党外の人々を粛清しようとは決して思ってはいない」と呼びかけた。さらには、「批判した者は罪には問わない」とも宣言した。
「共産党批判」がタブーに
こうなると、批判しないことのほうが悪いような雰囲気となり、学者や文化人たちから、党や政府へのさまざまな意見、批判が寄せられた。最初は毛沢東もそれに耳を傾ける態度を取っていたが、一九五七年六月になると、批判の声が予想以上に多いのに動揺したのか、「右派分子の狂気じみた攻撃に組織的な力で反撃せよ」という指示を出した。「右派」とは反共産党、反毛沢東という意味だ。
かくして毛沢東が批判しろと言うので意見を言った者のうち五十五万人が「右派分子」というレッテルをはられ、市民権を剥奪され強制労働を強いられた。そのうち過酷な労働で三十万人が死んだ。
ワンマン企業の経営者が、社員に「何か不満があったら、何でも言いたまえ」「みんなの意見を聞きたい」と意見を言わせて、自分に反感を抱いている者を見つけ出して解雇するのと同じだ。
こうして共産党への反対派が一掃され、中国共産党の独裁は強化され、党内では毛沢東独裁が強化された。毛沢東の権力は絶対的なものとなった。
この運動については、最初からすべて毛沢東の陰謀で、このように呼びかけて不満分子を顕在化させるのが目的だったという説と、あまりに自分への批判が多いのに動揺して、慌てて弾圧し始めたという説とがある。いずれにしろ、中国は、毛沢東批判、共産党批判が完全なタブーとなった。
批判を封じる手段として、あまりにも成功した。