「社会に対して感じる違和感を言語化してくれた」と大好評の文庫『モヤモヤするあの人~常識と非常識のあいだ~』。著者の宮崎智之さんは、実は差し歯なのだそう。前歯のあるなしとモヤモヤも大きく関係しているようです。『試験に出る哲学―「センター試験」で西洋思想に入門する 』の著者・斎藤哲也さんとの対談でも話題になった、宮崎さんの「前歯がないエッセイ」をどうぞ。
前歯がないブルース
僕の右の前歯は差し歯である。いつからかは忘れたが、この差し歯がそれはもうよく外れる。おかげで半年に1回くらいは歯医者に通っているあり様だ。
つい先月も花粉症のくしゃみと同時に、前歯が飛翔した。壁にカツンッと何かが当たったので拾ってみると、少し黄ばんだ僕の差し歯があった。
普段なら「まあ、よくあることだよね」くらいに思って粛々と歯医者に行くところなのだが、その月は仕事が目いっぱい入っていて、しかも保険証を紛失したという非常事態。結局、なかなか歯医者に行けずに、2週間近く前歯がないまま過ごすはめになってしまった。
昼間からコンビニにパジャマ姿で来店し、ぼさぼさの頭でエナジードリンクを握りしめながら、「袋は結構です」と力なく店員に伝える前歯がない30代のフリーライター。我ながらギリギリな存在だなと思いながらも、どうしても歯医者に行く暇が取れず、無為に時間ばかりが過ぎていくのであった。
しかし、なぜ前歯がないだけで、こんなにも社会からドロップアウトした気持ちになってしまうのだろうか。
前歯がなくなったことのある人にしかわからないと思うが、この心もとなさは何なんだろう。社会にコミットできないというか、一気に自分がアウトサイダーになってしまったかのような強迫観念がある。
「僕には前歯がないし、アル中気味だし、禁煙も失敗したし、最近離婚もしちゃったし、どうせみんな人としてギリギリだと思ってるんでしょ?」
前歯がないと、そんな卑屈な気持ちが、心の奥底から次から次へと湧わいてくる。
前歯一つで、そこまで心をかき乱されてしまうことに、僕はいつも戸惑いを隠せない。なぜ前歯がなくなっただけで、ここまで日常を失ってしまうのだろうか。思うに、前歯にはなにかがある。
また、別の日にはこんなこともあった。
ある著名な先生への取材中、差し歯が抜けるという大惨事に見舞われたのだ。舌の上で転がして差し戻すことに成功し、なんとか難を逃れたが、取材中に歯が抜けるライターなんて嫌すぎる。不自然に頬ほおを膨らますインタビュアーを前にして、先生が怪けげんな顔をしていたことは言うまでもない。
どんだけ前歯が抜けているんだという感じだが、前歯がない状態には、その現象以上の意味が含まれるということをご理解いただけたかと思う。
つまり、前歯がないということが、過剰なメッセージ性を持ってしまうのである。前歯が取れた瞬間に人は、「前歯がない物語」を生きていかなければならない。似たような事柄に、「金髪」があると思っている。社会人になっても金髪でいるという行為には、なにかしらの社会に対するメッセージが含まれる。「金髪でいる物語」を背負って生きなければならなくなる。あまり詳しくないが、「タトゥー」にもそういう一面があるのではないか。
ところが、金髪やタトゥーと違うところは、前歯がない状態は自分で選び取ったものではないということだ。社会に対してメッセージを発するために、わざわざ前歯を抜く人なんて、少なくとも現代の日本にはいない。
それはメッセージを受け取る側にも伝わることで、金髪やタトゥーなら「あ、こういう人なんだな」と了解して接することができる。しかし、前歯がない場合はどうだろう。相手は、ただただ不安になるばかりである。
自分で言うのもなんだが、僕はごく普通の常識的な風ふう貌ぼうをしている。しかしだからこそ、前歯がないことが強烈なインパクトを持ち得てしまうのだ。真夏に白昼夢を見るような……、いや、静かに壊れていくものを見せられた時のような不安定な感情を相手に抱かせてしまうのである。
前歯がない状態を「パンク」と表現した僕に、音楽好きの友人が「それはブルースだ」と教えてくれた。なるほど、ブルースか。ブルースだったのか。仕事も落ち着き、無事に差し歯を入れることができたが、これからも「前歯と日本社会」について継続的に研究していきたいと、心の中で決意するのであった。
前歯と社会にはなにかしらの関係がある。いや、きっとあるに違いない。
* * *
続きは、宮崎智之さんの文庫『モヤモヤするあの人~常識と非常識のあいだ~』をご覧ください。
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