2019年に発売された傑作ノンフィクション『森瑤子の帽子』が文庫になりました。80年代、都会的でスタイリッシュな小説と、家族をテーマにした赤裸々なエッセイで女性たちの憧れと圧倒的な共感を集めた森瑤子。母娘関係の難しさ、働く女が直面する家事育児の問題、夫との確執、そしてセックスの悩みといった今に通じる「女のテーマ」を日本で誰よりも早く、そして生涯書き続けた作家です。
書き手は島﨑今日子さん。「AERA」の「現代の肖像」や著書『安井かずみがいた時代』などで名インタビュアーとして知られる著者が、80年代と森瑤子に迫った渾身の1冊です(文庫版には酒井順子さんによる解説も収録)。一部抜粋してお届けです。
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妹分となる美しい画家との出会い
田村能里子は、中国西安のホテルの壁画を描き終えた頃、先輩画家の佐々木豊の出版パーティーの司会を頼まれて、彼の藝大時代の仲間である森と出会った。挨拶すると、森は「あなたの絵、二枚買ったのよ~。高かったわ」と返した。数日後、電話で「あなたに会いたいのよ」とランチに誘われ、指定の場所に出向くと、森は女友だちと待っていて、「あなたの絵には風が吹いているわね。私の文章にも風が吹いているの。同じ風なのよね。だから、あなたの絵、好きよ」と笑いかけた。作家は、四歳年下の美しい画家がいたく気にいり、例によって文庫本の解説や小説の挿絵を頼んで、たちまち親しくなっていった。
「男と女ならそこで『付き合おう』となるような、そんな言い方でした。すぐに意気投合したのは好みや価値観が同じだっただけではなくて、同じ働く女、同じ創作者だったからだと思います。それから雅代さんがリードする形で、雅代さんが主で私が従で、いろんなパーティーや楽しいことをやりました。人を喜ばせていくことのネタを探して実現していくことが、彼女は本当に好きでした」
蓼科のホテルに田村の壁画が完成した夏は、手に入れたランバンのアンティークドレスを着たいという森の発案で、二〇年代のファッションで渡辺貞夫のサックスを聴くというパーティーを開き、八十人もの友人を集めた。中山競馬場の壁画が完成した時には、これも森が言い出して本場イギリスのスタイルを真似て、オペラグラス片手に、帽子デザイナーの平田暁夫から借りたお洒落な帽子を被って競馬を観戦。夫の赴任先だったインドでの生活が長かった田村のアトリエでも、サリーを着る会などさまざまな集まりを開いており、大宅や安井、加藤タキらの他に、芳村真理など芸能界の人気者も集まった。
欲望を抑えるのは、「森瑤子」をやめること
「働く女が息抜きしようという、非日常な集まりが多かったです。みんな、四十代から五十代にかけての頃で、時代もよかったでしょ。世の中はウキウキしていて、雅代さんもとても仕事がうまくいっていた時だったから楽しそうでした」
青山のピアノバー「レヴアリー」で開いた森の五十歳の誕生日パーティーでは、「キャビアパーティーをしたい」という当人の希望があり、田村はキャビアの調達係を命じられた。結婚式やパーティーにほとんど出たことのない近藤も、作家から「誕生日なの。ちょっとだけ顔を見せてください」と電話が入ったため、剥き出しのラリックのグラスをポケットに入れて駆けつけた。そこで森は三十年ぶりにヴァイオリンを持ち出し、「トロイメライ」を演奏した。ヴァイオリンの腕前は落ちていたものの、何をするのにも森の頭の中ではあるべきイメージがあった、と田村は語る。
「雅代さんは小説の世界と自分の世界が重なり合っていて、小説の世界で暮らしたかったんです。楽しいことばかりではないということもいっぱい耳に入っていたけれど、彼女は憧れたことを実現していった。でも、創作者は立ち止まったら終わり。私は自分もそうだから、雅代さんが破滅と背中合わせのギリギリのところでやっているのはよくわかっていました。派手に見えたけれど、本当はいつも人恋しくて孤独で……。彼女のためには何でもしてあげたいという気になっていました」
森自身、果てしない欲望の行き着く先も哀しさも十分に知っていたに違いない。だが、もはや欲望を殺すことは「森瑤子」であることを諦めること、そして女たちの期待を裏切ることに等しかった。
日本は地価や株価が跳ね上がり、東京都内の土地代でアメリカ全土が買えると言われる狂乱の時代に入っていた。「何もなくなっちゃってて削り取って膨らませて膨らませて」しながら凄まじい勢いで原稿用紙を埋め続ける作家は、求める「森瑤子」を完成させるために、この頃にはためらうことなく洗練へと向かう。日本橋の髙島屋に開いたギフトショップ「森瑤子コレクション」には、日常生活では手が出せないような美しいものが並んでいた。
「外国のものとかとてもきれいなものばかりで、シルクの下着なんかも置いてありました。雅代さんにはそういうものを身につけている女のイメージがありましたからね。だけど売れないから、段ボールにシルクのパンティやブラジャーを詰めて私のアトリエに持ち込み、私の顧客を集めて売ったりもしました」
憧れと共感を同時に抱かせる女性
田村の絵を収集する女性たちは、みな、森を教祖のように敬い、彼女のファッションやライフスタイルを真似た。家庭を持つと失ってしまいがちな華やぎを森瑤子がその全身から放射していたからである。
「身近に感じられるけれど憧れも抱ける存在として、真っ先に雅代さんの名前が出てきました。女優さんのようにまったく手が出ないという人じゃないのがよかったんです」
田村の顧客には知られた企業人も多く、森は彼らとも会いたがった。お金を調達する必要に迫られた森に、カナダの島を売りたいと相談された時は、これぞという実業家を何人か引き合わせた。
「一人で島を買う人はいないので、数人で買って共同で使おうということで、買い手は見つかったんです。でも、最終的にアイヴァンさんがどうしても売りたくないということで、その話はなくなりました」
田村と森は、互いの夫を伴って旅行に行ったり、ゴルフをしたりという機会も多かった。田村が森を「雅代さん」と呼ぶのは、「僕は作家の森瑤子と結婚したんじゃない。伊藤雅代という女性と結婚したんだ」と言うアイヴァンを憚ってのことだった。男友だちも多い森のために、田村はあれこれと心を砕いている。田村夫妻と森がゴルフに行った時には、遠回りして下北沢の家に寄って森を降ろしてから自宅に帰るのが常であった。
「アイヴァンさんがその様子を窓からのぞいているのを知っていたので、彼女のためにそうしていました」
エッセイに描かれた森の最後の師走は、淋しいものだった。クリスマスに家族からプレゼントをもらえず、馴染みの占い師に会いに京都へプチ家出をして戻ってきた森を待っていたのは誰もいない家。一人で年越しをするつもりでいた森を迎えに行き、炬燵の上にご馳走を並べて彼女を慰めたのも田村夫妻であった。
──肉親の愛に恵まれない私は、しかし友情に恵まれて、温かい笑いのうちに除夜の鐘の音を聴いたのであった。(『マイ・ファミリー』中央公論社刊/九三年)
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森瑤子の帽子
よき妻、よき母、よき主婦像に縛られながらもスノッブな女として生きた作家・森瑤子。彼女は果たして何のために書き続けたのか。
『安井かずみがいた時代』の著者が、五木寛之、大宅映子、北方謙三、近藤正臣、山田詠美ほか数多の証言から、成功を手にした女の煌めきと孤独、そして彼女が駆け抜けた日本のバブル時代を照射する渾身のノンフィクション。