多発している交通事故。もちろん人間の不注意や過失が原因であることが多いが、その他の要因として「場所」が少なからず影響しているということも考えられる。どの地域にも、「なぜかわからないが交通事故が多発する」と言われている場所はある。しかし「なぜかわらかない」というような言い方をしていながらも、理由がはっきりとしていることは多い。見通しが悪い、カーブが急、標識が見えない、交通量が多すぎる、歩行者が多いなど、それは明らかに「場所」にも原因がある、ということである。しかしーー。例えば、東京池袋。そこには交通事故の多発する遊歩道があった。
通称ビックリガード
東京豊島区池袋。西武池袋線、JR線など複数の線路のしたを進む薄暗い遊歩道。ここは昼間なのに通行人の数は少ない。通称ビックリガード。池袋でも有数の心霊スポットでもある。谷底のような形状からか、見通しも悪く交通事故が起きやすい。そのため死亡事故も多く、幽霊の目撃証言が跡をたたないという。心霊スポットというと、都市伝説的なことだけが一人歩きするが、「霊が出る」と人々が噂するにも、ちゃんとした理由、裏付けがあるということだ。さて、それでは、なぜビックリガードと呼ばれるようになったのか。その理由は、江戸時代までさかのぼる。池袋には、江戸時代から現在までずっと囁かれている、「霊が出る」理由があるのだ。その理由は、小説『東京二十三区女』の続編である『東京二十三区女 あの女は誰?』より抜粋「豊島区の女」の試し読みでお楽しみください。
* * *
豊島区
東京二十三区の西北部に位置する。区の中心となる池袋は、新宿・渋谷と並ぶ副都心の一つ。駅周辺には、デパートなどの商業施設を中心とした大繁華街が広がっており、サンシャイン60や豊島区役所などの超高層ビル群が林立している。人口は約三十万人と、二十三区のなかでは十四位だが、人口密度は一位である。巣す鴨がものとげぬき地蔵と呼ばれる高岩寺や、雑司がやの鬼子母神には多くの観光客が訪れ、高級住宅地の目白や、文教施設の学習院大学、立教大学も豊島区に位置している。
*
異音
夜明け前のことだ。
阿久根一郎は、またあの音で目を覚ました。うるさくて眠れない。一体何の音だろうか。
豊島区、目白にある洋風建築の邸宅──
こつこつこつ……。
壁の向こう側から、誰かがノックしているような音である。だが、この部屋は二階であり、壁の外には、人が立つような場所はない。
こつこつこつ……。
鳥か何かの仕業なのかもしれない。彼女を起こさないように、静かにベッドを出た。
ガウンを羽織り、窓辺に歩み寄る。アーチ形のガラス窓を開けて、外を覗き込んだ。特に変わった様子は見られない。鳥や、ほかの動物の姿もなかった。すると……。
こつこつこつ……。
また物音がした。壁からではなく、今度は天井の方からだ。これでは、今夜も満足に眠れそうもない。
大きくため息をつくと、一郎は白髪頭を抱えた。
椎名町
自動改札を出て、一旦足を止める。
初めて降りた駅だ。
西武池袋線、椎名町駅──
原田璃々子は、肩にかけたトートバッグから、一枚の紙を取り出した。地図サイトからプリントアウトしたものだ。目的地の場所が記されている。場所を確認すると、再び歩き出した。
目的地に行く前に、しばらく周辺を散策してみることにする。懐かしい板塀の家が建ち並ぶ、東京下町の風景である。池袋の隣駅ということなので、近代的な街並みをイメージしていたのだが、そうではなかった。
四月になったばかりで、まだ肌寒かった。歩きながら、手にしていた、薄緑色のカーディガンを羽織る。璃々子は、フリーライターをしている。歩く度に、彼女の一つに束ねた長い髪が揺れる。
車一台通るのがやっとという幅の路地を歩くと、レトロなアーケード街に差し掛かった。段ボール箱につめた野菜を軒先に出している八百屋や、色あせたシート看板のラーメン屋……。まるで昭和の時代に迷い込んだような一帯である。池袋の近辺にこんな場所があるとは知らなかった。
路地を通り抜けて、駅前に戻ってきた。目的地に向かうことにする。その場所は駅のすぐそばである。
地図を片手に歩いていくと、片側に神社の玉垣が並んでいる道が見えてきた。道沿いに大きな鳥居もある。璃々子は、神社の鳥居の方向を目指して歩を進めた。背後から、男性の声がする。
「なるほど……地図から名前が消えた町か? 君にしては、なかなか興味深い場所に目をつけたな」
振り返ると、背後に長身の男性が立っていた。縦縞の襟なしシャツに、スラックス姿の男性。彼の名は島野仁。璃々子の大学時代の先輩である。
「かつてはこのあたりは、椎名町という町名だった。だが、あの表示を見てみろ」
先輩は電柱の住居表示を指し示した。そこには、〝豊島区長崎一丁目〟と記されている。
「現在の町名は、長崎一丁目となっている。椎名町という名前は、駅名に残されているだけだ。椎名町が、地図から消えた理由。それを君は知っているのか?」
いつものように、先輩が問いかけてくる。ちらりと仁を見ると、璃々子は答えた。
「もちろん知っています。私だって、少しは調べてきましたから」
そう言うと、璃々子は歩き出した。
こうして突然現れては、先輩は色々と蘊蓄を披露してくる。もとは民俗学の講師だったので、知識の量は半端ないのだが、上から目線で色々と言ってくるので、はっきり言ってうざいのだ。先輩を無視して、歩き続ける。
通りの片側は、長崎神社という神社の敷地になっていた。神社の玉垣が、道の先までずっと続いている。その反対側は、一軒家やマンションが建ち並ぶ住宅街になっていた。しばらく歩いていくと、璃々子は神社の入口にある、鳥居の前で立ち止まった。
神社の前の道はT字路になっていて、対面の角地には一軒のマンションが建っていた。手にしていた地図を見て、場所を確認する。間違いない。ここが目的地である。
「意外ですね。想像していた様子と全然違っていました。昭和史に残る事件の舞台だというので、もっと近代的な、都会的な所で起こったのかと思っていました」
璃々子は周囲に目をこらした。時刻はまもなく正午になろうとしているが、通りに人の気配はほとんどない。少し先の家の前で、老婆が外箒で道を掃いているだけだ。東京下町の日常的な風景である。
「確かにそうだな。しかし間違いないよ。かつてここに、日本中を震撼させた、あの帝国銀行椎名町支店があった」
「今から七十年前、ここで十二人もの命が奪われたんですね」
先輩は大きくうなずくと語り始めた。
「帝銀事件は、日本がまだアメリカの占領下にあったころに起きた事件だ。一九四八年一月二十六日午後三時二十分、帝国銀行椎名町支店に一人の男が現れた。五十歳前後の男で、長靴に黒い外套姿、『防疫消毒班』の腕章をつけ、厚生省の技官の名刺を差し出した。『近くの家で集団赤痢が発生した。今日その家の者が、ここに立ち寄っていることが分かったので、この銀行を消毒する。まもなく、GHQのホートク中尉が消毒班を指揮してここに来るので、その前に皆さんに予防薬を飲んでもらいたい』。男はそう言うと、行員や八歳の子供を含む用務員の家族十六名を集め、バッグから薬瓶を取り出した。手際よく人数分に分けて茶碗に注ぎ、目の前で自らも飲んでみせたという。指示に従い、十六名は茶碗の薬を服用したが、時間をおいて次々と苦しみ出し、十二名が死亡。その間に、現金十六万四千円と小切手一万七千円を奪い、男は逃走した」
蘊蓄を語り出すと、先輩は止まらなくなる。帝銀事件に関しては、璃々子も調べてきたが、もちろん先輩の知識には及ばない。
「白昼堂々と行われた凄惨な大量毒殺事件。実は、事件から遡ること三ヶ月前にも、同様の事件が起こっていた。品川区の安田銀行荏原支店に厚生省技官を名乗る男が現れ、支店長ら二十名を集めて、同じように薬を飲ませたという。さらに一週間前にも、新宿区の三菱銀行中井支店に不審な男が現れて、行員に薬を飲ませようとした。捜査本部は、犯行の手口などから犯人には毒物の知識があるものと考えた。遺体から検出された毒物は、青酸性化合物ということしか分からなかったのだが、服毒から死亡まで遅効性があることから、青酸ニトリールという毒物ではないかと推定した。青酸ニトリールは、戦時中に生物兵器を開発研究していた関東軍防疫給水部、いわゆる七三一部隊が、人体実験を行っていたという記録がある。犯人は軍関係の人間である可能性が高いと思われた」
やはり先輩の知識は凄い。グーグルやヤフーよりも、全然役に立つ。
「事件から七ヶ月後の一九四八年八月、平沢貞通という当時五十六歳の男性が帝銀事件の容疑者として逮捕された。だが、平沢は絵描きであり、軍関係の人間ではなかった。それに青酸ニトリールは、一般人の平沢が容易に入手できるものではない。しかし裁判で平沢は有罪となり、一九五五年に死刑が確定した。果たして、本当に平沢が帝銀事件の犯人なのか。巷では、GHQが事実を隠蔽し、平沢を犯人に仕立て上げたと噂された。アメリカ側は、七三一部隊の細菌兵器の研究データを、秘密裏に調査していたと言われている。GHQは、帝銀事件によって七三一部隊が表に出ることは、何としても避けなければならなかった可能性がある。真偽のほどは明らかにされることはなく、事件から三十九年経った一九八七年、平沢貞通は医療刑務所で病死した」
そこまで言うと、先輩は口を閉ざした。
周囲の風景を見渡しながら、璃々子は言う。
「でも知りませんでした。こんな住宅街の一角で、帝銀事件が起こったなんて」
「銀行といっても、今の様相とはかなり違う。質店だった木造家屋をそのまま使用した、簡素なものだったらしい」
「椎名町という町名が消えたのは、帝銀事件の影響からなんですよね」
「そういった噂もある。戦後の区画整理の際、椎名町から現在の南長崎に変わったのだが、一説によると、帝銀事件の影響ではないかと言われているんだ。凄惨な大量毒殺事件の舞台として、帝国銀行椎名町支店というのが、あまりにも有名になり過ぎたからだろう。当時は、毎日のようにこの事件のことが新聞で報じられていたからね。帝銀事件は、戦後の暗い影を残す、未だ謎に包まれた事件なんだ」
璃々子は、眼前の風景に目をやった。未だ昭和の雰囲気を色濃く残す住宅街の風景。とてもここが、日本中を震撼させた、恐ろしい事件の舞台だったとは思えない。
ゆっくりと目を閉じて、感覚を研ぎ澄ました……。
恐ろしい毒殺事件の現場。命を絶たれた十数人の人々。謎の毒殺犯。背後にちらつくGHQの影。七三一部隊。戦後日本の闇に葬り去られた事件──
確かにこの地は、目には見えないただならぬ気配に満ちあふれていた。それが、璃々子がこの東京のなかで探し求めているものと、関係があるのかどうかは分からなかった。
踵を返すと、璃々子は再び駅の方に向かって歩き出した。
四面塔
椎名町から電車に乗り、再び池袋駅に戻った。
改札を出て明治通りの人混みのなかを、新宿方向に歩く。背後からついてくる先輩が、声をかけてくる。
「どうせまた、くだらないオカルト雑誌の取材なのだろう。今度は池袋編というわけか? 確かにこの池袋は、君の好きそうな都市伝説の宝庫だからな」
無視して歩き続ける。先輩はさらに言葉を続ける。
「だが僕にとっては傍迷惑な話だ。君はこの僕の、類いまれなる民俗学の知識を利用しようという魂胆なのだろうが、残念ながら僕はそれほど暇ではない」
「だから、別についてきてほしいってお願いしたわけじゃないですけど」
璃々子は、タブロイド誌の企画として、東京に隠された怪異をテーマに、二十三区にある史跡や都市伝説の現場を巡っている。しかし、彼女がそういった場所を巡るのは、雑誌の企画のためだけではない。本当の理由は、別のところにある。
「別に僕だって、好き好んで君の低俗な取材に付き合っているわけじゃない。僕にだって、それなりに理由があって……」
「どんな理由なんですか? だって先輩は、オカルト的な現象や幽霊とか霊魂とかの存在を、全然信じていないじゃないですか」
「当たり前だ。何度も言っているように、この世には存在しないんだよ。幽霊などという非科学的なものなど。君は霊だとかお化けだとか、目には見えない怪しげなものを盲信しているようだが、それはとても危険なことだ。スピリチュアリズムの蔓延は、カルト宗教や霊感商法などを助長し、社会を危機に陥れることがある。オウム真理教の一連の事件は、その最たる例と言えよう……」
後ろで先輩がごちゃごちゃ言っている。〝霊の実在〟について、先輩と意見を戦わせることが無意味であることは、璃々子はよく知っていた。なぜなら彼女は、先輩が圧倒的に間違っていることを知っているからだ。璃々子が東京二十三区を巡る理由。それははっきり言って、後からついてくる、この先輩の存在にほかならなかった。
璃々子には、幼いころから、この世のものではない存在を認知する力がある。おかげでこれまでの人生は、散々なものだった。友達には気味悪がられ、まともな恋愛もしたことがない。その不可思議な力を隠して付き合えばいいのだが、それほど器用ではない。
この東京に出てきてから、彼女の霊感はさらにどんどんと研ぎ澄まされてゆき、まともに人付き合いができなくなった。大学の時、同じような力に悩む人に出会えたのだが、結局彼女は命を絶ってしまった。卒業してからは出版社に就職。だが、長続きはせず、フリーライターという職業を選んだ。彼女の願いは、「とにかく自らの忌まわしい力を消したい」ということ……。
でもその目的を叶えるためには、自分に降りかかっている、ある大きな問題を解決しなければならなかった。彼女にまとわりついている、恐ろしい事態……。
先輩が璃々子に取り憑くようになったのは、一年ほど前のことである。仁は、品川区のコーポの一室で変死体となって発見された。一体なぜ、彼は死んだのか。先輩は東京二十三区の民俗学の研究をしていた。璃々子は先輩が、この東京のどこかに隠された、呪いの封印を解いて、命を落としたと思っている。
というわけで、先輩はもうこの世のものではないのである。突然、璃々子の前に現れては、得意の蘊蓄を披露する。だが彼は、自分が死んだことを知らない。それとなく仄めかしたことはあるのだが、頑として、認めようとはしなかった。確かにそうなのだ。彼は幽霊の存在を認めていない。だから自分が死んでいることも信じようとはしない。
璃々子は考えた。一体先輩は、この東京のどこで呪いの禁忌に触れ、死んだのだろうか。彼女が、この東京の史跡や都市伝説のスポットを巡るのは、彼の死の原因を解明し、安らかに成仏してもらうためである。一刻も早く、先輩の霊に消えてもらい、普通の女の子に戻りたい。だからこうして、曰く付きの場所を巡っているのだ。
駅を出てから、明治通りを五分ほど歩いた。信号がある交差点で立ち止まる。右側に目をやると、線路の下に、道路をえぐり取ったような大きなガードが見えた。道路は、速度を上げたタクシーやトラックが、頻繁に行き交っている。交差点を左に曲がり、ガード下の方に進んでいった。
しばらく歩き、ガード下の遊歩道に通じている階段を下りていった。遊歩道に出て、線路の下を進んでゆく。すぐ脇には、速度を上げた車がひっきりなしに走っている。ガード下といっても道路は両側で四車線あり、距離も、西武池袋線、JR線の複数の線路の下を進んでゆくので、百メートルほどはある。
薄暗い遊歩道を進んでいった。昼間なのに通行人の数は少ない。
通称、ビックリガード──
池袋でも有数の心霊スポットである。東口と西口を連結する道路で、谷底のような形状からか、見通しが悪く交通事故が起きやすい。そのため死亡事故も多く、幽霊の目撃例が跡を絶たないという。
璃々子は遊歩道の中心で足を止めた。ゆっくりと周囲を見渡す。頭上では、電車が通る轟音が鳴り響いている。ガード内の照明は、薄暗く不気味だ。確かに、何か出そうな雰囲気である。目を閉じて、精神を集中させる。
だが……。
特に異変のようなものは感じられない。どうやら、今この時点では、この場所には幽霊や霊魂のようなものは存在しない……と思った瞬間だった。
「ビックリガード。正式名称を都道池袋架道橋という」
一人いた! この世のものではない存在が……。
すっかり忘れていたが、彼も幽霊の一人だった。薄暗い蛍光灯の光のなかに佇む先輩。その姿と声は、ほかの通行人には分からず、璃々子にしか感知することが出来ない。
「では、君は知っているのか? なぜ人々はこの場所を〝ビックリガード〟と呼ぶようになったのか?」
「理由? それは……幽霊が出てきて、びっくりするからじゃないですか」
「だから、この世には幽霊など存在しないと言っているだろう」
死んでいる人に、そんなことを言われても、全く説得力がない。
「この場所が、ビックリガードと呼ばれる理由。それは昭和の初めごろに遡る。そのころは、まだ車は普及しておらず、荷馬車がおもな運搬手段だった。それで、このガードを荷馬車がくぐり抜けようとすると、電車が通る度に、馬がびっくりして大暴れした。だから、ビックリガードと言われるようになったという」
「でも、幽霊の目撃例も多発しているスポットでもあります」
「確かにこの道路は、交通事故が起きやすく、死亡事故も多い。そういう場所だから、人々は怖がって、幽霊を見たと思い込んでしまうのだ。心霊現象とは、人間の恐怖心から起こる錯覚に過ぎない」
どや顔で言う先輩。幽霊に心霊現象の科学的解明をされても、全然納得しない。
ガードを通り抜けると、池袋の西口のエリアに出た。高層ビルが林立する、都会の街並みのなかを璃々子は進んでゆく。昼時が近いとあって、池袋西口は大勢の通行人が行き交っていた。果たして、先輩が触れたかもしれない、東京二十三区の禁忌は、この池袋に存在するのだろうか。
ホテルメトロポリタンの前を通り過ぎ、駅の方に進んでゆくと、先輩がまた声をかけてきた。
「ではなぜ、池袋という名が付けられたのか? その由来については知っているか?」
「池袋の由来ですか? いえ……知りませんけど」
歩きながら、璃々子は考えた。確かになぜ池袋というのか? 考えたこともなかった。
「あそこを見てみろ」
そう言うと、先輩が進行方向にある一角を差し示した。交差点の角地にある、わずかなスペースである。公園ほどの広さはないが、鉄製のベンチも設置された場所だった。その一角に向かって、先輩は歩いていった。璃々子も後を追う。
そのエリアに入ると、先輩は奥にある、柵に囲まれた一角で足を止めた。柵の向こう側には、大都会の街中という場所柄には不似合いな、墓石のような石碑があった。
「ここは?」
「あの石碑を見てみろ」
先輩が石碑を指さした。石碑の表面には『池袋地名ゆかりの池』と刻印されている。
「池袋地名ゆかりの池? ここが、池袋の地名の発祥の地ということなんですか?」
「そうだ。石碑の隣に小さな池が見えるだろう。池袋という地名は、その池から始まったと言われている」
先輩が指さす方に目をやる。視線の先に、岩に囲まれた空洞があった。径は一メートルほどで、池というほどの大きさではない。これが、池袋の地名の由来となった池なのだろうか? 近寄ってなかを覗き込むと、水は涸れていた。
「昔は、この辺りは沼や池が密集する湿地帯だった。水辺に囲まれた袋状の土地だったから、池袋と呼ばれるようになったと言われている。また、かつてこの一帯は、至るところから、水がぶくぶくと湧き出て、袋のように地面が膨らんでいたという。だから池袋と名付けられたという説もある。ちなみに、母親のことを『お袋』というのは、子供を身ごもると袋のようにおなかが膨らむからだ」
先輩の蘊蓄は続く。
「とにかく江戸時代は、池袋と言えば、誰も人が寄りつかない秘境だった。沼や池に囲まれた荒れ地のなかに、わずかばかりの集落が点在するだけだったという。昭和になっても、この辺りは発展から取り残され、池袋と聞いてもどこか分からないくらい、僻地のような扱いをされていたんだ」
改めて、先輩の知識に舌を巻く。これほど役に立つ幽霊も珍しい。蘊蓄を語り終えると、先輩は歩き出した。璃々子もその後を追う。
池袋の人混みのなかを歩く先輩──
行き交う通行人たちには、彼の姿が見えないはずだ。こうして白昼の都会を、幽霊の後について歩くのは、どこか不思議な感じがする。
「それでは、豊島区の〝豊島〟となった理由は知っているか?」
また先輩が質問を投げかけてくる。
「え? さあ……それは、この区のなかに豊島っていうところがあるからじゃないでしょうか?」
「違う。豊島区には、豊島という地名はない。JR王子駅の北に〝豊島〟という地名はあるが、そこは北区だ。遊園地のとしまえんも、住所は練馬区になる」
「じゃあ、なんで豊島区って言うんですか?」
「平安時代から室町時代にかけて、豊島氏という、大きな勢力を誇っていた武将がいた。豊島氏が統治していた場所は、この豊島区を含め、今の台東区や北区、新宿区や渋谷区、千代田区、港区など広範囲に及んでいた。豊島氏が滅んでも、その一帯は、しばらくは豊島郡と呼ばれていたんだ。北区や練馬区に、豊島の地名があるのはその名残りだ。この地域が豊島区を名乗るようになったのは、昭和七年のことだ。豊島氏が勢力を誇っていたのは広範囲に及んでいたので、特にこの地域が豊島郡の中心地だったわけではないが、なぜか区名に〝豊島〟が使用された」
「一体なぜ、この地域が豊島郡の中心だったわけじゃなかったのに、豊島区になったんですか?」
「ほかに、いい名前がなかったんだろう」
「どういうことです?」
「さっきも言ったように、昔この一帯は、人も寄りつかないような僻地だった。だから、特にこれといった、区名になるような特徴がなかった。それで、有名だった〝豊島〟の名前を拝借したと言われているんだ」
JR池袋駅の西口に到着した。駅の入口の前を通り過ぎると、先輩は線路沿いの道を進んでゆく。一体、どこに向かっているのだろうか。しばらく歩くと、線路を横断する地下道に降りていった。線路の下をくぐり、地下道を出ると、再び池袋の東側にたどり着く。
先輩は、パルコがある路地に入っていった。璃々子も後に続く。少し歩くと、明治通りとJRの線路の間に、公園になっているスペースが見えてきた。
大型家電量販店が立ち並ぶエリアの裏側の辺りである。まだ午前中なのだが、公園のなかは賑わっていた。ベンチは、背広姿のサラリーマンなどで埋まり、脇の喫煙スペースでは多くの人が灰皿を囲んでいる。
その公園の片隅に、古めかしい祠が二つ並んでいた。
こちらもまた、池袋のど真ん中という場所柄から考えると、違和感のある光景である。先輩は、二つ並んでいる祠に向かって歩いていった。
二つの祠のうち、左側の祠には、狐の像が祀られている。稲荷神社のようだ。先輩は、左側の祠を通り過ぎると、右側の祠の前で足を止めた。周囲は厳重に柵で囲まれており、賽銭を入れる穴だけが開いている。思わず璃々子は、先輩に訊いた。
「この祠は?」
「四面塔だよ」
「四面塔?」
「江戸時代、八代将軍吉宗のころに建てられた慰霊碑だ。さっきも言ったように、この辺りはほとんど人が寄りつかない場所だった。だから、この近くの街道では、通り魔や辻斬りが横行し、道端には旅人の死体がごろごろと転がっていたらしい。ひどい時には、一晩で十七人もの人間が殺されたというんだ。だから、無縁仏となった旅人たちを憐れんで、地元の村に住む人々がこの供養塔を建てたんだ」
そう言うと先輩は、祠の奥を指さした。
「ほら、祠の奥を見てごらん。石塔が見えるだろう。あれが、その四面塔だよ」
先輩が指さす方に目をやった。確かに祠の奥には、古ぼけた石塔が鎮座している。石塔の表面には、「南無妙法蓮華経」とお題目が刻印されている。
「今ではこんな大都会なのに、江戸時代は辻斬りが横行するほど、この辺りは寂しい場所だったんですね」
「ああそうだ。この池袋一帯は、沼や池に囲まれた湿地帯で、誰も寄りつかなかった場所だった。うっかり足を踏み入れると、辻斬りに襲われて、命を落としてしまうかもしれないと、恐れられていたんだ」
璃々子は、周囲の風景に視線を向ける。高層ビルに囲まれ、大勢の人で溢れかえっている大都会。人が寄りつかないような、恐ろしい場所だったとはとても思えない。
「君の好きそうな話をしてやろう。実はこの四面塔は、最初からここにあったわけじゃない。何度か場所を移されている。明治時代、もともと四面塔が建っていたところに、鉄道の線路が通ることになった。そのために移設されることになったんだが、その後工事に携わった人間が次々と不審死を遂げたというんだ。以来、この四面塔は〝祟りの塔〟として怖れられるようになった。高度成長期のころも、池袋駅周辺の開発工事に伴い、四面塔の移設話が持ち上がった。その時も事故が頻発して、四面塔の跡地に建てられたデパートはすぐに潰れたそうだ」
そこまで言うと、先輩は一旦言葉を切った。四面塔から視線を外して、池袋の市街の方に目をやった。
「そして現代にも四面塔の因縁は続いている。平成十一年には、この近くの路上で恐ろしい事件が起こった。雑踏のなか、男が突然、包丁とハンマーを取り出し、無差別に通行人を襲撃。複数の死傷者を出した凄惨な事件だ。池袋通り魔事件。聞いたことあるだろう」
池袋通り魔事件──
その言葉を聞くと、璃々子の脳裏で記憶が蘇った。
確か白昼堂々、池袋の雑踏で、無差別に歩行者が通り魔に殺傷されるという衝撃的な事件だった。騒然とする事件現場。アスファルトに点々と付着した被害者の血痕……。そのころはまだ子供だったが、連日のように、テレビのニュースが事件について報じていたことを覚えている。
「当時、通り魔事件は四面塔の祟りではないかと怖れる人もいたんだ。この土地は、江戸のころより、何人もの旅人が無惨にも斬り殺された場所だからね」
「あれ、先輩は祟りとか信じているんでしたっけ?」
「別に、僕が信じてるわけじゃない。祟りかどうかは知らないが、四面塔のことを怖れている人がいるということは事実だ。だから池袋一帯がどんなに変わっても、このように四面塔は大切に残されているんだ」
江戸時代の辻斬りと、平成の通り魔事件。璃々子は思った。土地に残された呪いや怨念は、切れ目なく連鎖していると……。現実に起こっている事件の背後には、東京の歴史の陰に封印された因縁が潜んでいる……。
その時だった。
突然、璃々子に何かが覆い被さってきた。
思わず悲鳴を上げる。慌てて逃れようとするが、重くて動けない。璃々子は息を吞んだ。
襲われる……。恐怖で体が硬直する。思わず目を閉じた。
だが……。
ゆっくりと目を開ける。
周囲の通行人も、何事かと、こちらに視線を向けている。自分に倒れかかってきた人物に目をやった。
白髪頭の男性だった。年齢は六十代ほどだろうか。額には脂汗がにじみ、目を閉じて苦しそうにしている。通り魔のことを考えていたので、一瞬肝を冷やしたのだが、どうやらそうではないようだ。
「大丈夫ですか」
気を取り直して、声をかける。その問いかけには答えず、男性は朦朧とした顔のまま、呻き続けていた。
(つづきは文庫で)
ドラマ「東京二十三区女」も毎週金曜日深夜0時からWOWOWにて好評放送中です。
放送第三回は、まさに「豊島区の女」。お楽しみください。