最愛の息子が池で溺死。絶望の淵で知可子は、息子を産み直すことを思いつく。同じ誕生日に産んだ妹に兄の名を付け、毎年ケーキに兄の歳の数のローソクを立て祝う妻の狂気に夫は怯えるが、知可子はいびつな“完璧な母親”を目指し続ける。そんな中「あなたの子どもは幸せでしょうか」と書かれた手紙が……。まさきとしかが紡ぐダークミステリー、『完璧な母親』。最新作『ゆりかごに聞く』の発売を記念して、その一部を公開します。
* * *
マンションの前には、引越業者のトラックが停まっていた。作業着の男がふたり、ベッドを運び入れるところだ。
「あ、すみません。ご迷惑をおかけします」
作業員のひとりが陽に焼けた顔を知可子に向けた。
「何階ですか?」
知可子は訊ねた。
「三階です。えーと、三〇二号室ですね」
知可子たちの隣の部屋だ。この半年間、空き室のままだったのだ。
ベッドを運ぶ作業員の後ろから、知可子と波琉子は階段を上った。
「お引っ越し?」
波琉子が訊ねる。
「そう。お隣にね、新しい人たちが来たんですって。ちゃんとご挨拶しようね、はるちゃん」
「はーい」
二階と三階のあいだの踊り場の蛍光灯が不規則な点滅を繰り返している。大家に言わなくちゃ、と知可子は思う。階段には小さな窓しかなく、蛍光灯が消えたら昼間でも薄暗く物騒だ。
三〇二号室のドアは開かれ、養生シートが貼ってある。ベッドが運び込まれるのを視界のすみで見届けながら、知可子は玄関の鍵を取り出した。
あ、と波琉子が小さく声を出し、知可子の袖を引っ張った。隣のドアから人が出てきたところだった。
あ、と知可子からも声が漏れた。正体のわからないものがぶつかってきた感覚に、くらりとなった。まず金色の髪が目に飛び込んできた。次に、くたびれたグレーのトレーナー。
金髪の女は胸の前で両腕を組み、階段にぼうっと視線を投げている。二十代の後半だろうか、傷んだ毛先にパーマが残り、化粧っけのないあさ黒い顔は不健康そうで、厚ぼったいまぶたが小さな目に覆いかぶさっている。
──母親失格。
自分の声が頭のなかでした。
知可子は女の指先に目をやり、長い爪と剥がれかけた赤い色を認めた。
袖を引っ張る力に視線を転じると、波琉子が咎める目を向けていた。ちゃんとご挨拶しようね、と言ったばかりの母親がいつまでも黙ったままでいるからだろう。
ふたりの作業員に続いて、開いたドアから男児が転がるように現れた。波琉子よりひとつふたつ下、四、五歳だろう。男児と波琉子の目が合うのが、見なくても感じられた。
知可子がとっさに波琉子を抱きしめたのは、母親の本能からだった。陰気くさい男児の目に波琉子を晒すのが耐えられなかった。
「こんにちは」
波琉子を抱えながらようやく声にした。
金髪の女がのろりと視線を動かすまで、二、三秒かかった。
「どーも」
夜の女が昼に出すような声だった。
男児が、作業員の後ろから階段を下りていった。点滅する蛍光灯の音が、プチ、プチプチン、と聞こえてくる。
「こんにちは」
知可子の袖をつかんだまま、波琉子が緊張した声を発した。
女は無言で、こくん、とうなずいただけだった。
守らなくては、と知可子は思った。この女から子供を守らなくては。
どうしてそう感じるのかはわからなくても、自分の決意が正しいことだけはわかる。
女が部屋のなかに消えるまで、知可子は子供の肩を抱いたまま目をそらさなかった。
*
誕生日の夜、「なにももらわなかったよ」と、波琉子はきっぱりと告げた。
十三歳になった波琉にポータブルラジオを、六歳になった波琉子にはクマのぬいぐるみをプレゼントし、
「一歳のときのプレゼントはなんだったのかしら。あげたのかしら、あげなかったのかしら。どうしても思い出せないのよ」
と、毎年の科白を知可子が口にしたときだった。
「ほんと? ほんとになにもあげなかった?」
知可子は身をのり出した。
「うん、もらわなかったって」
波琉子は、ケーキの上の炎が消えたろうそくを見つめながら答えた。
「波琉が言ってるの?」
「そうだよ。それからね、ラジオをもらってすごく嬉しいって。こういうのが欲しかったんだって。お母さんありがとう、って言ってるよ」
「おい、波琉子?」
不安げな声を出した夫を、知可子は片手で制した。
「あとは? あとはなんて言ってるの?」
「お母さん大好き、って。お母さんはいいお母さん、って」
「それから?」
それから、と復唱した波琉子の瞳がわずかに揺らいだ。
「また来年ね、って」
そう答えたとき、夫がパンパンと大きく手を叩き、「さあ、食べよう。おいしそうだなあ」と大きな声を出した。
ローテーブルには、十三本のろうそくを立てた手づくりのケーキ、鶏の唐揚げ、海老フライ、ポテトサラダ、寿司、いちご、そしてシーチキンのマヨネーズ和えがのった冷やし中華。
「ほら、冷やし中華好きでしょ。たくさん食べなさい」
知可子は涙で濡れた顔をぬぐい、波琉子の取り皿に冷やし中華を取り分けた。
「無理やり食べさせることないだろう」
夫が珍しくきつめの声で言い、波琉子を見て口調を変えた。
「波琉子、好きなものを食べなさい。波琉子はこのなかでなにがいちばん好きなのかな。お父さんは鶏の唐揚げだな。波琉子は海老フライかな? それともいちごかな?」
「冷やし中華」
波琉子は真顔で答えた。
「え?」
「冷やし中華がいちばん好き」
不意打ちを食らったような夫を眺め、子供を宿したことのない男親はそんなこともわからないのか、と知可子は呆れた。
もうやめないか、と夫が言い出したのは、波琉子が眠ってからだった。
ローテーブルの上には、缶ビールと鶏の唐揚げだけが残っている。ソファに座った夫はぬるくなったビールに口をつけ、
「七年もたったんだからさ」
と続けた。
「どういうこと? なにをやめるの?」
夫の言っている意味が知可子にはまるで理解できなかった。
「さっきのあれだよ」
手のなかの缶ビールを見つめ、夫はぽつりと言う。
「さっきの、あれ?」
「波琉子だよ。さっき波琉子があんなことを言い出したのは、お母さんに気をつかってだぞ。そのくらいはもちろんわかってるよな?」
わかってる? と聞きたいのはこっちのほうだ、と知可子は思う。
波琉子のなかに波琉がいるのがわかってるの? 波琉子から波琉の言葉が聞けるのがわかってるの? あの子たちはふたりでひとりだとわかってるの?
無理なのかもしれないと思う。しょせん男親は五感でしか子供とふれあうことができないのだから。
「波琉子は演技をしてるってことだよ。冷やし中華だって毎年無理やり食べさせてるけど、ほんとは波琉子、好きじゃないぞ。見ててわからないのか?」
「なに言ってるの? はるちゃんは冷やし中華が大好きよ」
あまりにもとんちんかんな夫に、知可子は笑い出したくなる。
「なあ、ほんとうはおまえだってわかってるんだろう?」
「なんのこと? ねえ、さっきからなに言ってるの?」
このごろ、夫に違和感を覚えることが多い。夫婦なのにちがうものが見えているような、ちがう風景のなかにいるような、そんな感じだ。
しかし、ちょうどいい機会かもしれないと考え直し、知可子は夫に報告することにした。
「前から言おうと思ってたんだけど、四月二十五日が過ぎるまで、はるちゃんを小学校に行かせるのはやめようと思うの」
「え?」
「ううん、もちろん入学式には出席するわよ。でも、私の目の届かないところにあの子をやるのが心配なの」
「ちょっと待て」
「当然のことよね。あなただって四月二十五日が来るのが怖いでしょう。またあの子になにかあるんじゃないかって不安でしょう。今度こそなにがあってもあの子を守るわ」
いつのまにか夫はうつむき、まるで蟻が次々と巣に入っていくさまを見つめているようなまなざしだった。夫がうめくような声を漏らし、え? と知可子は首をかしげた。
「……俺だって苦しかったんだ」
やがて夫はつぶやいた。
「知ってるわ」
「だからもうやめないか」
「なにをよ」
「残念だけど、波琉はもういないんだ。もちろん波琉子のなかにもいない。波琉は波琉で、波琉子は波琉子。兄妹だけど、ちがう人間だ。そうだろ? このままじゃ波琉子がかわいそうだと思わないか?」
知可子には見えない蟻を見つめながら夫は言った。言い終わっても顔を上げない。
「じゃあ、どうして波琉と波琉子は同じ日に生まれてきたと思うの? ただの偶然だと思うの? そんな偶然あるわけないじゃない。私には、あの子が生まれる前からわかっていたわ。でもね、あなたがわからないのは仕方がないとあきらめていた。だってあなた、男だもの。あの子を産んでいないもの。ほんとうの意味で、血を分けてはいないもの。だからお願い。私の思うとおりにさせて。四月二十五日を過ぎるまで、はるちゃんから目を離したくないの」
知可子が言い終えると、静けさが四方から押し寄せてきた。幹線道路から離れているため、車の走り抜ける音さえ聞こえてこない。それにしても静かすぎる。
「ねえ、変だと思わない?」
声をひそめて話しかけると、夫はようやく目を上げた。
「なにがだ?」
「お隣よ。いつも静かすぎると思わない? 物音がひとつも聞こえてこないなんておかしいわよ」
「おかしくはないだろう、一応鉄筋なんだから」
「だって、引っ越してきた日に見かけただけなのよ。挨拶にも来ないし、表札も出てないから名前さえわからないのよ。マンションのほかの人にも聞いてみたけど、誰も見たことがないって言うし。なんだか気味が悪いわ」
だからいますぐにでも引っ越したいのだった。あの金髪の女と陰気くさい男児から波琉子を遠ざけたかった。しかし、経済的余裕がないことは十分知っていた。
「その話はもう何度も聞いたよ」
夫はそっけなく言い、リモコンに手を伸ばしてテレビをつけた。
「小さな男の子がいるのよ。たぶんはるちゃんよりひとつかふたつ下。それなのに声もしなければ、遊んでる姿を見かけたこともないのよ」
夫は返事もせずに、親指を動かしテレビのボリュームを上げる。
やはり男親にはわからないのだ、と知可子は心のなかでため息をついた。すると、母親であることの優越感がわずかばかりこみ上げた。