新聞社で働く柳宝子は、虐待を理由に、娘を元夫に奪われていた。ある日、21年前に死んだはずの父親が変死体で発見される。宝子は父の秘密を追うことになるが、やがてそれは家族の知られざる過去につながる。一方、事件を追う刑事の黄川田は、自分の娘が妻の不貞の子ではないかと疑っていた……。『完璧な母親』などの作品で根強いファンを持つ、まさきとしかの最新作『ゆりかごに聞く』。その発売を記念して、一部を公開します。
* * *
翌日、父は灰になった。火葬場を出ると、遺体安置所で応対してくれた刑事が立っていた。
「ご愁傷さまでした」と深く頭を下げた刑事に、宝子は無言で頭を下げ返す。
「まだご報告できることはありません。お父様は鈴木和男という人物と入れ替わったんじゃないか。そうも考えたのですが、該当する人物はいませんでした」
それは宝子も考えたことだった。二十一年前、火事で死んだのは鈴木和男という人間で、父は彼になり代わって生きていたのではないか、と。
「じゃあ、どういうことですか?」
無意識に出たのは、遺体安置所でも繰り返した言葉だった。
「どういうことなのか、いま調べています。近いうちに柳さんにも改めてお聞きすることになりますが……柳さん」
刑事の声が改まる。
「二十一年前、あなたのお父様が焼死したとされたときですが、遺体の損傷がひどく、指紋が取れなかったのはご存じですか?」
宝子はうなずいた。
当時、宝子は小学六年生だった。誰かに説明されたわけではなかったが、頭上を飛び交う大人たちの会話からだいたいのことは理解できた。
「では、歯の治療痕で身元確認したこともご存じでしたか?」
「はい」
「確認を取ったところ、その歯科医はすでに廃院していました。ですから、いまとなっては調べようがないんですが、とにかく当時は歯の治療痕が一致した。お父様の部屋が火事になり、焼け跡から住人らしき遺体が発見され、歯の治療痕も一致。となると、亡くなったのはお父様だと判断せざるを得ないのですが」
いや、言い訳になってしまいますが、と刑事は宝子が抱える骨箱にちらっと目をやった。
「ところで、二十一年前の遺骨はどちらにありますか?」
「……お墓に」
「お墓はどちらですか?」
「札幌です」
「札幌?」
「父の実家が札幌なんです」
父は若いころ、逮捕されたのをきっかけに勘当されたらしかった。ただ、父の母である祖母とだけは連絡を取り合っていた。父が亡くなったとき、内緒でお墓を買ってくれたのも祖母だ。本家のある札幌なら私がお参りしてあげられるから、と言って。その祖母も亡くなってしまった。
宝子ははっとした。
そのお墓に、いまは母も眠っているのだった。
母は、他人の骨と一緒に眠っている。無意識のうちに骨箱をきつく抱きしめていた。
父の遺骨は、雪が解けるのを待って四月の終わりに納骨した。風が強かった。冷たい風だった。桜の花がほころんでいるのを見て、北海道はこんな遅くに桜が咲くのかと驚いたのを覚えている。墓石の下に白い骨壺が納められたとき、母は泣いた。祖母も泣いた。宝子も泣いた。「さようなら、お父さん」とつぶやいた母の声がいまも耳に残っている。
宝子を残してみんな死んでしまった。
*
聞き慣れた音が聞こえる。なんの音なのかはわからない。
目を開けるとうす暗く、長い夢から覚めたような心地だった。自分のいる時間と場所が曖昧だ。
携帯の着信音だと気づいたのと、テーブルの上の骨箱が目に入ったのは同時だった。眠りの膜が一気に剥がれ落ちる。火葬場からホテルに戻ったのは昼すぎだった。少し横になろうとしただけなのに、思いがけず長いあいだ寝てしまったらしい。
電話はデスクの勝木からだ。会社ではなく、携帯からかけてきている。
「勝木さん、すみません」
責められる前に謝った。
一週間休ませてほしいと、勝木に一方的な電話をしたのは水戸に来た日の夜、遺体が父であることを確認してからだった。勝木にはまだなにも説明していない。説明しないまま、父の件は誰にも言わないでほしいと頼んであった。
「謝らなくていいから説明しろよ。いったいどうなってんだよ」
「すみません」
「だから、謝らなくていいって言ってるだろ」
「あの、このことは……」
「誰にも言ってねえよ。病欠ってことにしてあるから、帰ってきたら自分で自分のケツ拭けよ」
勝木の声を聞くとほっとして、涙が出そうになった。変わらないものもある。そう思えた。
「で、どうなんだよ? まちがいだったんだろ? どうなんだ? ちがうのか?」
「父でした」
勝木は言葉を失ったようだった。
「……どういうことだよ」
数秒後、絞り出すような声がした。
「わかりません。なにもわからないんです」
「そんなことってあるのかよ。だって、おまえの親父さん」勝木は言葉を切り、声をひそめた。「おまえが小学生のときに亡くなったんだよな?」
「でも、父だったんです」
宝子は、テーブルの上の骨箱を見つめながら答えた。薄闇のなか、まるでひっそりと発光するように見える。
「いったいどうなってんだよ」
ひとりごとの口調だ。
「誰にも言わないでください」
返事はない。
「知られたら記事になるかもしれません。二十一年前の遺体の身元確認にミスがあって、死んだはずの人間が生きていた、って」
「でも、情報は漏れるものだぞ。そのうち警察発表があるかもしれんし」
「警察発表の場合、名前は出ないはずです。でも、社内の人に知られたら、二十一年前のことを、家族のことを、いろいろ聞かれるし、調べられます。甘いのはわかっています。でも、私自身まだなにもわからないんです。せめて、もう少し待ってもらえませんか?」
「いつ帰ってくるんだ?」
ため息をつくような声だ。
「明後日には帰ります」
「帰ったらきっちり説明しろよ」
「わかりました」
「必ずだぞ」
「はい」
すみません、と小さく言い添え、通話を切った。
もうすぐ五時になるところだ。
父が住んでいた建設会社の寮に行くため、宝子はホテルの部屋を出た。
まるで暗がりへと分け入るようだった。
宝子の瞳に、闇をのみ込んだ針葉樹の林が映り込む。林が途切れると、収穫後の畑のあいだに民家が点在し、民家が見えなくなるとまた林が現れた。まだ五時半にもなっていないのに、夜の深みに沈められた風景に見えた。
タクシーを降りたのは、広い敷地の前だった。重機と車が並び、建物が二棟ある。手前が会社で、奥が寮だろう。背後には針葉樹の林が黒く鋭角な輪郭を伸ばしている。ひっそりと隠れるような場所に見えた。
寮の窓にはいくつかのあかりがともっている。インターホンを鳴らすと、昨日焼香に来てくれた小柄な男が現れた。男に案内され、二階に上がった。
父が十年間暮らしていたのは、四畳半の部屋だった。日焼けした畳と色褪せた薄青のカーテン。家具は備え付けらしい古い収納棚がひとつあるだけで、部屋のすみに茶色いボストンバッグが置いてある。
「来週から新入りが来ることになったから」
荷物を片付けたことの言い訳をするように、男はぼそっと言った。
「ほんとうにお世話になりました」
宝子は頭を下げた。
「いろいろあるから」
頭を上げると、居心地悪そうな男の顔があった。宝子を見ずに、「みんな、いろんな事情があるからね」と続けた。
事情、と宝子は嚙みしめた。父の事情、と続けて思う。死んだ人間として生きていくのにはどんな事情があったのだろう。
「父はここでどんなふうに暮らしていたんですか?」
「どんなふう、って……」
「どんなことでもいいので、父のことを教えてもらえませんか」
男は鼻の下を人差し指でこすってから「やっぱりなんか事情があったんだろうけど」と前置きし、思い切ったように口を開いた。
「逃げてたんじゃないかな」
「逃げる」
無意識のうちに復唱していた。
「いや、隠れてたのかもしれないけど」
数秒おいてから、「なにからですか?」と宝子は尋ねた。
「それはわかんないけど。ここにいるだいたいがそうだから」
俺もそうだし、と男は薄く笑う。
「こちらに来る前、父がどうしていたかは知りませんか? どこから来たのかとか、どんな仕事をしていたのかとか」
男は気の毒そうに首を振る。
「なんにもしゃべらないから、わけありで逃げてきたって言われてたんだよ」
父は十年前、作業員募集のチラシを見てやってきたそうだ。鈴木和男と名乗ったが、人目を忍ぶ気配が感じられ、偽名であることが察せられたという。鈴木和男は必要最小限のことしか話さず、現場と寮を黙々と行き来していただけだった。寮にいるときは食事を済ませると自分の部屋に引きこもり、仕事仲間との会話に加わることもなかった。やくざ者に追われているだとか人を殺して逃げているなどと噂されていたという。
鈴木和男がはじめて仕事仲間と酒を飲んだのは、二、三ヵ月たってからだった。夕食を終えた食堂でのことだった。ひどく酔っぱらった彼はいきなり泣き出し、妻が死んだのだと言った。心の一部が決壊したように泣きじゃくり、そのまま眠ってしまった。
「あんなふうに子供みたいな泣き方をする男を見たのはひさしぶりだったから、なんだか胸に迫ってね。俺は早いうちにおふくろを亡くしたから、そのときのことを思い出してもらい泣きしそうになったよ」
男は鼻の下をこすりながら言った。
「ほかにどんなことを言ってましたか?」
男は眉間のしわを深くし、んんー、と唸った。
ゆりかごに聞く
新聞社で働く柳宝子は、虐待を理由に、娘を元夫に奪われていた。ある日、21年前に死んだはずの父親が変死体で発見される。宝子は父の秘密を追うことになるが、やがてそれは家族の知られざる過去につながる。一方、事件を追う刑事の黄川田は、自分の娘が妻の不貞の子ではないかと疑っていた……。『完璧な母親』などの作品で根強いファンを持つ、まさきとしかの最新作『ゆりかごに聞く』。その発売を記念して、一部を公開します。