1. Home
  2. 社会・教養
  3. オスマン帝国英傑列伝
  4. オスマン帝国の繁栄の理由は「多様性」にあ...

オスマン帝国英傑列伝

2020.10.04 公開 ポスト

オスマン帝国の繁栄の理由は「多様性」にあった小笠原弘幸

三大陸をまたにかけ、一時はヨーロッパを飲み込もうとしていた大国、オスマン帝国。
世界史上稀に見る、600年もの長期繁栄を保ったこの国の強さとはどこからくるのでしょうか。
意外なことに、オスマン帝国の強さの理由は、多民族、多宗教を受け入れ、女性や文化人も活躍できた、人々の「多様性の尊重」にありました。

話題の新書『オスマン帝国 英傑列伝』では、国を支えた最も魅力的な10人の多種多様な人生を通して、建国から滅亡までの波乱万丈の歴史を読み解きます。

本書より「はしがき」を無料公開いたします。

多民族・多宗教から成り立っていた

かつて、オスマン帝国という国があった。

いまのトルコ共和国の領土と、ほぼかさなるアナトリア半島。

その片隅で一三世紀末に産声をあげたこの国は、数世紀のうちに領土を拡大してイスラム世界の覇者の座を獲得し、アジア、ヨーロッパそしてアフリカの三大陸をまたにかける大帝国となった。イスタンブルを都としたオスマン帝国は、一六世紀にはハプスブルク帝国の首都ウィーンを包囲するなど、世界でもっとも強大な国家となる。帝国は一八世紀末より、発展いちじるしいヨーロッパ列強の従属下におかれるものの、近代化改革に一定の成功を収め、イスラム世界の盟主としての地位を保った。

繁栄と衰退ののち、この国が滅亡したのは一九二二年。いまからほんの一〇〇年ほど前のことである。

 

オスマン帝国は、なぜこれほどまでに強力で、繁栄したのだろうか。理由のひとつは、さまざまな出自を持つ人々が、この国で活躍しえたことにある。

この国の王族はトルコ系の出身で、公用語としてトルコ語が用いられていた。

それゆえこの国は、えてして「トルコ人の国家」と思われがちである。だがその実態は、出身民族にこだわらぬ、多民族が活躍できる場であった。アラブ人、アルバニア人、ギリシャ人、クルド人、セルビア人……オスマン帝国は、まごうことなき多民族国家だった。

一方で、この国はイスラム教を奉じていたから、ムスリム(イスラム教徒)を中心とした国であった。そのなかでキリスト教徒やユダヤ教徒をはじめとした非ムスリムの臣民たちは、権利を制限されつつも、社会や経済で重要な役割を演じていた。改宗後に政治の中枢で活躍した元キリスト教徒は、珍しくない。

多民族と多宗教からなるこの帝国は、それゆえにこそ、六〇〇年という歴史上まれにみる命脈を保ったのである。すなわち、帝国の長い歴史は、民族的にも宗教的にも、さまざまな「人」によって支えられたのだった。

英傑10人を選んだ基準

オスマン帝国をはじめとしたムスリム諸王朝には、人物伝を著すという長い伝統がある。君主や貴顕のみならず、詩人、書家、イスラム学者など、さまざまな分野で活躍する人々について、たくさんの人物伝が書かれた。国家や社会は人々が織りなす活動が支えているのであり、彼らの名と事績を書き残すことが歴史という営みそのものである、という考え方があったのだろう。

本書は、そうした伝統を受け継ぎ、オスマン帝国を生きた人々のなかから、もっとも魅力的だと思われる一〇人をとりあげ、その評伝を記したものである。

いま、もっとも魅力的な、と述べた。もちろん、帝国の長い歴史のなかで、英雄や偉人は枚挙にいとまがない。そのなかから一〇名を選ぶのは難しい作業であったが、つぎの三つの方針に従った。

ひとつは、君主たるスルタンたちである。オスマン帝国は、オスマン家を王家と仰いだ王朝国家であり、スルタンはつねに重要な役割をになっていた。

スルタンの持つ権威は一六世紀後半より低下していくが、それでも帝国の転換点には、改革を進めた有能なスルタンの存在があった。オスマン帝国の英雄たちを語るにあたり、彼らスルタンをはずすわけにはいくまい。三六名を数えるスルタンのうち、存在感のある人物には事欠かないが、王朝の創始者オスマン一世、この国を真の帝国とした第七代メフメト二世、そして危機に陥った帝国をよみがえらせた第三〇代マフムト二世を選んだ。

ふたつには、女性たちである。オスマン帝国に限らず、前近代の国家においては、女性が表舞台に立って活躍する機会は少なかった。それでも、王家の女性たちのなかには、政治的な影響力を発揮する者たちがいた。また、近代になると、王族ではない市井の女性たちが活躍するようになる。

こうした人々のなかから、壮麗王スレイマン一世の寵姫(ちょうき)ヒュッレム、スルタンたちの母后として権力をふるったキョセム、帝国末期に革命家として異彩を放ったハリデ・エディプの三人をとりあげたい。

三つめとして、芸術家たち。オスマン帝国は尚武の国家といわれており、それは間違いではない。かつては、オスマン帝国における学問や芸術は、ほかのムスリム諸王朝に比して一段低く評価されていた。しかし近年では、この国の文芸は他国に劣らぬ発展を遂げたことが指摘され、研究が進んでいる。

トルコに遍在するあまたの建築を手がけたミマール・スィナン、細密画の世界に革新をもたらしたレヴニー、洋画家そして考古学者として活躍したオスマン・ハムディの三名を、オスマン美術への導き手として紹介しよう。

そして、これらのグループのどれにも当てはまらない人物を、最後にとりあげる。オスマン帝国を滅ぼし、トルコ共和国の初代大統領となったムスタファ・ケマル──またの名をアタテュルクである。本書の掉尾(ちょうび)として、彼ほどふさわしい人物はあるまい。

 

本書では、この一〇人を、時代にそって語ってゆく。これによって、オスマン帝国についてよく知らない読者も、この国の長い歴史を追体験できるだろう。もちろん、面白そうな、あるいは聞いたことのある人物から自由に読みはじめても、いっこうにかまわない。執筆にあたっては、できる限り、これらの人々の現代における位置づけについても言及した。この英傑たちは、忘れ去られた遠い過去の存在ではなく、いまなお現代を生きているのだ。各章の扉絵には肖像画を掲載し、その「絵解き」から語りはじめる形をとった。また、本編で語り切れなかった人々や集団については、五つのコラムをもうけて簡単に説明しているので、本編のあいまにご覧いただきたい。

それでは、列伝の幕を開けることとしよう。

 

【本書で取り上げる英傑10名】

オスマン一世(?~1324年頃) 略奪と紙一重の“聖戦”で王朝の礎を築いた創始者
メフメト二世(1432年~1481年) ビザンツ帝国首都攻略、カリスマと呼ばれた征服王
ヒュッレム(1505年頃~1558年) 奴隷出身からスレイマンの后へ昇りつめた魔性の女性
ミマール・スィナン(1491年頃~1588年) オスマンのミケランジェロと呼ばれた国民的建築家
キョセム(?~1651年) ハレムで殺害された、帝国史上最も力を持った母后
レヴニー(1681年頃~1732年) 華やかなる「チューリップ時代」を支えた伝説の絵師
マフムト二世(1785年~1839年) 近代化を推進、帝国滅亡の危機を救った名君
オスマン・ハムディ(1842年~1910年) 帝国近代の文化を牽引した天才画家にして考古学者
ハリデ・エディプ(1884年~1964年) 独立戦争を最前線で指揮した美貌の女性革命家
ムスタファ・ケマル(1881年~1938年) オスマン帝国に引導を渡したトルコ建国の父
 

続きは本書をお楽しみください。

小笠原弘幸『オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史』

13世紀末、現在のトルコ共和国の片隅で誕生したオスマン集団は、やがて三大陸をまたにかける大帝国となった。1453年ビザンツ帝国コンスタンティノープル陥落、1529年ウィーン包囲など、世界で最も強大な国家を築き上げ、イスラム世界の覇者として君臨した。世界史上稀にみる600年もの長きにわたる繁栄の理由は、さまざまな出自を持つ人々が活躍しえたことにあった――。優れた改革を推し進めたスルタン達、西洋列強に劣らぬ文化を確立した芸術家、そして政治に影響を与えた女性たちの活躍。多様な経歴の10の人生を通して、大国の興亡をひもとく一冊。

{ この記事をシェアする }

オスマン帝国英傑列伝

バックナンバー

小笠原弘幸

1974年北海道北見市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、九州大学大学院人文科学研究院イスラム文明学講座准教授。専門は、オスマン帝国史およびトルコ共和国史。著書に『イスラーム世界における王朝起源論の生成と変容――古典期オスマン帝国の系譜伝承をめぐって』(刀水書房、2014年)、『オスマン帝国――繁栄と衰亡の六〇〇年史』(中公新書、2018年)。編著に『トルコ共和国 国民の創成とその変容――アタテュルクとエルドアンのはざまで』(九州大学出版会、2019年)。
 

この記事を読んだ人へのおすすめ

幻冬舎plusでできること

  • 日々更新する多彩な連載が読める!

    日々更新する
    多彩な連載が読める!

  • 専用アプリなしで電子書籍が読める!

    専用アプリなしで
    電子書籍が読める!

  • おトクなポイントが貯まる・使える!

    おトクなポイントが
    貯まる・使える!

  • 会員限定イベントに参加できる!

    会員限定イベントに
    参加できる!

  • プレゼント抽選に応募できる!

    プレゼント抽選に
    応募できる!

無料!
会員登録はこちらから
無料会員特典について詳しくはこちら
PAGETOP