三大陸をまたにかけ、一時はヨーロッパを飲み込もうとしていた大国、オスマン帝国。
世界史上稀に見る、600年もの繁栄を誇ったこの国の強さとはどこからくるのでしょうか。
意外なことに、オスマン帝国の強さの理由は、多民族、多宗教を受け入れ、女性や文化人も活躍できた、人々の「多様性の尊重」にありました。
話題の新書『オスマン帝国 英傑列伝』では、国を支えた最も魅力的な10人の多種多様な人生を通して、建国から滅亡までの波乱万丈の歴史を読み解きます。
本書より、日本では織田信長と重ね合わされることも多い、天才であり征服王として名高いスルタン「メフメト二世」の人物伝を一部抜粋してご紹介します。
ビザンツ帝国、コンスタンティノープルを攻略
即位間もないメフメトは、これまでのスルタンたちがなし得なかった大事業に着手する──コンスタンティノープルの攻略である。
かつてビザンチウムと呼ばれたこの都は、四世紀、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世(位三〇六~三三七年)の名にちなんでコンスタンティノープルと改名された。ローマをしのぐ都として発展したこの町は、西ローマ帝国が滅亡したのちも、東ローマ帝国、いわゆるビザンツ帝国の帝都として繁栄した。
ビザンツ帝国がその栄華を失い、ボスフォラス海峡の一角のみを支配するにすぎない一小国となり果てたあとも、コンスタンティノープルを守る三重の大城壁は、幾多の攻撃を退けてきた。五世紀の皇帝テオドシウス二世(位四〇八~四五〇年)の名を持つこの城壁のうち、もっとも巨大な内城壁は厚さ五メートルにして高さ一二メートル、九六の塔を持ち、おそらくはこの時代、世界でもっとも堅固なものであった。
オスマン帝国も、これまで幾度となくこの都の攻囲を敢行してきたが、いずれも失敗に終わっている。ゆえに、ムラト二世時代より続いて国政を取り仕切っていた大宰相チャンダルル・ハリル・パシャは、コンスタンティノープルの攻略に反対した。ビザンツ帝国より貢納を受け取るという、これまで通りの関係を続けていくことを主張したのである。しかし、若く大胆なメフメト二世に、この老臣に従う気はなかった。
攻略に先立って、メフメトは入念な準備を行っていた。まず、ボスフォラス海峡に砦を築き、黒海方面からの船の交通をコントロールする。ついで、ハンガリー人の技術者ウルバンに、巨大な大砲を作らせた。その大きさのため装塡準備に時間がかかり、一日に七回しかその轟音を響かせることはできなかったが、この巨砲は、直径六〇センチメートル、重さ五〇〇キログラムを超える砲弾を放つことができた。ウルバンみずから「バビロンの城壁すら打ち破る」と評したこの大砲は、まさしく大城壁にたいする切り札であった。
一〇万人を動かしたカリスマ的演説
総勢一〇万人といわれるオスマン軍の出陣にあたって、メフメトは諸将に向かって長い演説を行い、つぎの文句で締めくくった。
「一呵成(いっきかせい)にこの都市を攻略せん──たとえわれらが死すとも、そのあるじとなるまで退くまい」
当時のコンスタンティノープルは衰退いちじるしく、人口は五万人程度にすぎなかった。期待していた西欧からの本格的な援軍は来なかった──同じキリスト教徒であっても、正教を奉じるビザンツ帝国と、カトリックを信仰する西欧との間隙(かんげき)は大きかったのである。
彼我の戦力差があってなお、包囲は長期化した。二か月近くも攻撃を頑強にしのいでいたビザンツ軍であったが、五月二九日、大砲によって破壊された城壁よりイェニチェリ軍団が突入した。城壁の守りを失ったビザンツ軍に、もはや勝機はなかった。
こうして、コンスタンティノープルは陥落した。
最後のビザンツ皇帝、コンスタンティノス一一世の行方は定かではない。戦闘のなかで行方知れずになったとも、金角湾付近に建つ、のちにモスクへと変えられた聖テオドシア教会(現在のギュル・モスク)に埋葬されているともいう。
征服以降、コンスタンティノープルは、徐々にイスタンブルと呼び習わされていくようになり、それにともなって、イスラム帝国の都としての姿を整えてゆく。コンスタンティノープルの象徴たる聖ソフィア教会は、アヤ・ソフィア・モスクへと転用され、半島の突端、かつてギリシャの神々を祭るアクロポリス神殿があった丘には、トプカプ宮殿が建設された。以降この宮殿は、一九世紀なかばにドルマバフチェ宮殿が建築されるまで、帝国の枢要でありつづける。
コンスタンティノープルの征服をもって、オスマン帝国は、真に「帝国」と呼ばれうる存在になった。メフメト二世の治世に中央集権化が進み、のちの礎となる国制が整備されたゆえである。
さらにこの征服は、もうひとつ、大きな歴史の象徴となった事件であった。
古典的な歴史の時代区分では、人類の歴史は、ギリシャ・ローマに代表される古代、ローマが崩壊して封建制が成立した中世、そしてルネサンスや宗教革命をへた近代の三つの時代に分けられる。ヨーロッパ以外に適用するには無理のある、西欧中心主義的な歴史観であるために批判されて久しい時代区分ではあるが、いまなお歴史の大きな流れをとらえるための大まかな枠組みとしての有用性は失われていない。
この区分のうち、中世の終わりをどの事件に求めるかはいくつかの見解があるが、有力なもののひとつが、一七世紀ドイツの学者クリストフ・セラリウスによって最初に唱えられた、ビザンツ帝国の滅亡を機とするものである。
すなわち、「ローマ」を滅ぼして中世に終止符を打ったのが、メフメト二世なのであった。
続きは本書をお楽しみ下さい。