三大陸をまたにかけ、一時はヨーロッパを飲み込もうとしていた大国、オスマン帝国。
世界史上稀に見る、600年もの繁栄を誇ったこの国の強さとはどこからくるのでしょうか。
意外なことに、オスマン帝国の強さの理由は、多民族、多宗教を受け入れ、女性や文化人も活躍できた、人々の「多様性の尊重」にありました。
話題の新書『オスマン帝国 英傑列伝』では、国を支えた最も魅力的な10人の多種多様な人生を通して、建国から滅亡までの波乱万丈の歴史を読み解きます。本書より、フェミニストであり、革命家の「ハリデ・エディプ」の人物伝より一部をご紹介します。
フェミニスト、作家、ナショナリスト、多彩な顔を持つ才女
青年トルコ革命(一九〇八年)によって憲法と議会が復活すると、第二次立憲政と呼ばれる時代がはじまった。この時代、ハリデは文筆活動と社会活動に、これまで以上に意欲的に参加するようになる。まず、革命直後の混乱を避けてエジプトそしてイギリスへと赴いたハリデは、帰国後にダーリュル・フュヌーン(のちのイスタンブル大学)で西洋文学を教えた。
女性の教育と社会参加を支援する目的で、「女性の権利向上委員会」を組織したのもこのころである。自由の雰囲気あふれる第二次立憲政時代ではあったが、社会で積極的に活動する女性は、まだ珍しかった。
オスマン帝国において、王族以外の女性が社会で活躍するのは、ハリデより一世代ほど年長にあたる、小説家ファトマ・アリイエを端緒とする(本書こちら参照)。ハリデと同世代の女性活動家としては、デンメ(一七世紀、表面上イスラム教に改宗したが、ユダヤ教の信仰と慣習を保ちつづけた集団)出身でジャーナリストとして活躍したサビハ・セルテル、女性の権利拡大に尽力したネズィヘ・ムヒッティンの名が挙げられよう。
ハリデは、女性の社会進出や家庭における女性の待遇改善について、精力的に活動する。ただし、同時代のイギリスにおけるサフラジェットのような活動については批判的であった。サフラジェットとは、二〇世紀初頭、女性参政権を要求し過激な活動も辞さなかった女性活動家たちのことである(彼女たちを題材として、二〇一五年に映画『サフラジェット』(邦題は『未来を花束にして』)が公開されている)。これをもって、ハリデが女性参政権には否定的であった、とする研究者もいる。
しかし、彼女は女性参政権に無関心というわけではなかった。たとえば、ハリデが一九一二年に発表したユートピア小説である『新しいトゥラン』では、女性が参政権を持つ理想社会が描かれているし、同時代のあるイギリス人は、彼女を女性参政権の擁護者であると述べているからである。ちなみに、トルコにおいて男女平等の参政権が認められたのは一九三四年であり、欧米諸国と比しても遅くはない(イギリスは一九二八年、日本は一九四五年)。
面白いことに、一九一九年に行われた議会選挙では、女性に被選挙権がなく、もちろん立候補していなかったにもかかわらず、当時有名になっていたハリデはいくつかの地域で得票していた。女性が議員となることについて、それを気にしない有権者もいたということだ。
「トルコ人の母」と呼ばれる
ハリデはこの時期、トルコ民族主義者のグループである「トルコ人の炉辺」に加わってもいる。ここで彼女は、ズィヤ・ギョカルプらトルコ主義のイデオローグたちと交わり、多くを学んだ。後述するように、イスタンブルが占領されて以降は愛国者として果敢な活動を続けてもいる。
とはいえ、彼女は偏狭なナショナリストではなかった。有名なアルメニア人音楽家のコミタスと親交を結び、彼が「トルコ人の炉辺」のメンバーに加わるよう尽力しているし、第一次世界大戦のさいにアルメニア人を襲った惨劇についても、それを悼む文章を発表している。彼女はたしかにナショナリストであったが、それは他の民族や宗教を排除するものではなかったのである。その意味で、彼女は「オスマン主義」(タンズィマート改革以降推進された、民族・宗教にかかわらずすべての臣民は平等であるとする思想)の申し子であったといえるかもしれない。
また彼女は、海相ジェマル・パシャ(青年トルコ革命を主導した統一進歩委員会の指導者のひとり)の要請で、シリアに赴いて教育や孤児の保護に尽力している。こうして精力的に活動する彼女を、「トルコ人の母」と呼ぶ者もいた。
二度目の結婚
彼女とともに活動する男性たちにとって、ハリデは魅力的に映っていたのは間違いない。トルコ民族主義運動のリーダー的存在であるユースフ・アクチュラも、そのひとりである。ロシア帝国のカザン出身のタタール人で、ロシア当局の弾圧を逃れてオスマン帝国に亡命した彼は、汎トルコ主義のマニフェストとされる『三つの政治路線』(一九〇四年)を著し、トルコ民族の連帯を唱えた人物である。この論説において、彼はオスマン帝国のトルコ人と、中央アジアのトルコ人とが手を取り合って、ロシアをはじめとする列強に対抗するよう呼びかけたのであった。青年トルコ革命後は、前述の「トルコ人の炉辺」を組織し、機関誌『トルコ人の祖国』を中心に論陣を張る。アクチュラとハリデは、「トルコ人の炉辺」の活動を通じて親密になっていった。アクチュラは友人に、自分はハリデに惹かれているし、彼女もまた自分に好意を持っていること、しかし元ユダヤ教徒を父に持つ彼女とは結婚できないことを、率直に吐露している。
結局、ハリデの再婚相手となったのは、アブデュルハク・アドナンである。一六世紀にさかのぼるイスラム学者ウラマーの名家出身である彼は、医学校を卒業したのち、アブデュルハミト二世の専制政治を嫌ってドイツに留学していた。青年トルコ革命ののちに帰国してからは、軍医として勤務している。ハリデより二歳年長のこの実直な医師は、ハリデが病を得たときに診察したことなどを契機に、ハリデを愛するようになった。サーリフ・ゼキと異なり、女性を束縛することのないアドナンを、彼女も好ましく思ったに違いない。ふたりは一九一七年に結婚し、以降、生涯をともにすることになる。
小説家としても高い評価を受けていた
ここで、小説家としてのハリデについて、触れておこう。
ハリデは早熟な少女だった。アメリカン・スクールに通っていたため英語を得意とし、一八九七年、つまり一三歳のとき、英語の小説であるジョン・アボット著『家庭の母』(一八三三年)をトルコ語訳して表彰されている。一八九九年には、はじめての小説『ジプシーの娘』を新聞で連載した。とはいえ、小説家として本格的に作品を発表するようになるのは、サーリフ・ゼキと離婚してのちのことである。
ハリデの小説は、大きく三つのタイプに分けられる。
ひとつは、女性をとりまく環境や女性教育の問題に焦点を当てた作品であり、『ハンダン』『新しいトゥラン』がその代表である。
ふたつには、彼女自身が参加した独立戦争に題材をとった作品である。実体験に基づいた描写は、ある種のドキュメンタリーとしての価値を持とう。代表作としては、『炎のシャツ』が挙げられる。この作品は、トルコ共和国成立と同年の一九二三年に映画化され、はじめてトルコ人女性が出演したことでも知られる(それまでは、女優は非ムスリムが務めるものとされていた)。
そして、トルコの家族や社会の光と影を浮き彫りにした作品群が、三つめのグループである。アブデュルハミト二世時代、イスタンブルの下町に生きる家族を描いた『蠅のたかる雑貨屋』は、トルコでもっとも読まれた小説のひとつだ。
この作品も一九六七年に映画となり、その後も映像化されている。
続きは本書をお楽しみ下さい。