日本だけでなく世界中が新型コロナの話題一色。最新の情報は知りたいけれど、知れば知るほど不安になる――多くの人がそんな生活を送っていた今年6月、『「健康」から生活をまもる――最新医学と12の迷信』(生活の医療社)という、ドキッとするタイトルの本が出ました。著者は医師の大脇幸志郎さん。えっ、だって、健康は何より大事、健康あってこその生活じゃないの? 『「健康」から生活をまもる』の「序」を2回に分けてお届けします。
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新型コロナウイルスのせいで結婚式の準備が止まった。中止になるかもしれない。妻は花粉症なのにマスクもティッシュも品薄だと言って鼻水をすすっている。
筆者は医学教育を受けているので、鼻水を出している人に手袋をつけないで触れるのには抵抗を感じてしまう。たとえ花粉症だとわかっていても、「花粉症に隠れた感染症があるかもしれない」と考えるのは、理由のないことではない。しかし、医師である以前に人間として、家の中でまで手袋はつけていたくないと思うし、それ以上に、妻を病原体扱いするのはかわいそうだ。
この騒ぎにうんざりしている人はどれくらいいるのだろう。学校が休みのあいだ子供の面倒を見ないといけなくなった人。自営業の店を開けられなくなって生計が危ない人。不安と不満を一手に引き受けて不眠不休で働いている医療従事者。
憂鬱なのは、大騒ぎになっているわりに、新型コロナウイルスは天然痘ウイルスやペスト菌のような「強い」病原体ではないということだ。若くて元気な人は感染してもほとんど軽症で済む。重症になるのは主に高齢者や持病がある人だ。むしろ、軽症で動き回ってしまう人が多いからこそ広がりやすいのかもしれない。それなら高齢者にも病人にも接することのない人は気にしなくていいかと思うと、そうでもないらしい。人から人へと感染が連鎖してしまうかもしれない。
「もし自分が感染を広げてしまったら……」
「もし人ごみのどこかに感染した人がいたら……」
「もし外国人がウイルスを持ち込んだら……」
と、何重にも不安が連鎖する。誰もがはじめは苦笑交じりに対策とやらに付き合っていたはずが、いつのまにか「自粛」の「要請」を厳守するのが当たり前になっている。マスクで自分の身は守れないと知っていても、世間の目が怖くてマスクなしで外には出られない。
いったいなぜ、こんなことになってしまったのだろう。どうすればこの疑心暗鬼の地獄から抜け出せるのだろう。
ウイルスがいなくなればいい。それは当然だ。だが、流行はまだ続きそうな気配だし、「もう怖がらなくていい」と言えるほどの治療薬もワクチンもできていない。「今度こそ」という噂が次から次へと流れてくるが、どれもこれも怪しく見えてしまう。
医学が進歩してウイルスを制圧するまで、事態は変わらないのだろうか。
残念ながら、医学の勝利は誰にも約束できない。だが、事態をいくらかでもマシにする方法はあると思う。医者や研究者ではなく、私たち生活者の力で。
最初の違和感を思い出してほしい。ウイルスは大したことがないはずなのに、不釣り合いに騒ぎが大きくなっている。だとすれば、釣り合う程度しか騒がなければいいのではないか。
偉い人たちはしきりに「パニックを起こすな」と言う。トイレットペーパーを買い占めても意味がないと言う。無駄な検査はかえって有害かもしれないと言う。わからないこともない。
だが、こういう話にも別の違和感がある。イタリアではあっという間に何千人という死者が出た。本当に落ち着いて見守ればそれでいいのだろうか。買い占めに意味がないことは知っていても、実際にパニックを起こした人がいて、トイレットペーパーは品切れになっている。検査は必要なときだけと言うが、40℃の熱を出しているうちの子が「必要なとき」でないなら、いつ「必要なとき」があるのだろう。
共通しているのは、「なぜそれを私に言うのか」ということだ。パニックがよくないことなど知っているが、偉い人は日替わりで一層の注意を呼びかけていてもパニックではないのだろうか。買い占めは不合理なパニックかもしれないが、それなら買い占めをしている人にだけ言えばいいのではないか。検査が必要ないと言うなら、なぜ検査なしで治してくれないのだろうか。
一言で言って、医者や政治家が解決できなかった問題を、「自助努力でなんとかしてください」と投げ返されるのは、おかしいのではないか。だから、「冷静になろう」と言われても、どこか腑に落ちない。どうすればいいのだろう。
この問題は見た目よりもはるかに複雑だと思う。パニックは特定の誰かのせいではなく、「みんな」のせいで起こる。ひとりひとりは十分に理性的であっても、大勢集まることで思ってもみない現象が起こる。誰のせいでもないから、誰にも解決できない。
小難しく言えば、いまの混乱の原因は現代社会の文化にある、というのが筆者の考えだ。日本に限らず、おそらく世界中の国々で、同じ問題が起こっている。
感染症と文化は一見関係ないことに思えるかもしれない。必要なのは薬、ワクチン、そして検査であって、買い占めとか不安の声は枝葉にすぎないのではないかと。関係ないとは言わないまでも、せいぜい「キスやハグの習慣がある国では感染が広がりやすいか」といった点にだけ注意すればよく、「なぜパニックが起こるのか」などと考えてもウイルスに対しては無力ではないかと。
だが、身の回りを振り返ってほしい。私たちは、ウイルスそのものよりもはるかに強く、ウイルスが連れてきた社会の混乱にこそ苦しめられているのではないだろうか。
ウイルスと人体に働きかける医師の仕事はもちろん大切だ。だが、問題はそれだけではない。人体の問題ではなく、社会の問題もまた問題だ。社会の問題は誰が解決してくれるのだろう。政治家だろうか、社会学者だろうか。いずれにせよ、ウイルスの世界的な流行という巨大で複雑な出来事に対して、少数の専門家ができることは限られている。「偉い人ががんばってみんなを幸せにしてほしい」と願うのは自然なことだが、その願いが叶うことはない。では自分の身を自分で守る方法はあるのだろうか。
(次回11月21日に続く)
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