12月9日に発売された『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(宮崎智之著)は、世界を平熱のまま情熱をもって見つめることで生まれました。アルコール依存症や離婚を経験しながらも、もう一度、日常の豊かさに立ち戻ろうと決心する——。そこで突き付けられるのは、自分の「弱さ」でした。宮崎さんと面識のある、批評家の矢野利裕さんはどう読まれたのでしょうか?
新しい世界が広がる逆説的な言葉の世界
宮崎さんのことを知らない人がこの本を読んだら、どのような読書体験になるのでしょう。僕はすでに宮崎さんと出会っているので、文章を読みながらもう、ずっと宮崎さんの顔が浮かんでいました。
本書の最初のほう、「何者か」ということをめぐって考えをめぐらしている文章があります。二葉亭四迷を読み、福田恆存を読み、話題になった東畑開人さんの本を読み、ただそこに「いる」ことの重要性に思いいたり、そのうえで最後の最後、「「何者か」として世に認められたい」という気持ちがぬぐえないことを自覚する。さしあたり、自分は「弱い何者か」なのだ、と(「「何者か」になりたい夜を抱きしめて」)。
この「弱さ」というのは、本書の重要なキーワードです。本書の最後には、弱くありながらも生きられる社会の「贅沢さ」ということが書かれていますが、これは、とても大事な発想だと思いました。以前、Yahoo!知恵袋で「人間にとっての適者生存とは、社会を作って弱者を支えることである」という回答に感銘を受けたことがありましたが、たしかに「弱さ」を許容できることが、人間の社会たるゆえんかもしれません。
ただ僕は、宮崎さんはちゃんと「何者か」になっている、と思っています。かつては破滅的に酒を呑み、それ以外にもいろいろと人生経験も豊富で、こうやってその足跡が一冊の素敵な本になる。なんとも波乱万丈な人だなあ、という印象をもっています。さらに言うと、ちゃんと「強さ」ももち合わせていると思います。しっかりと自分の意見を言えるような「強さ」や自分を打ち出せるような「強さ」。もちろん、その「強さ」は排他的な態度を意味するものではありません。
だから、このように思いました――すなわち、個性みたいなものは自分ではなかなか気づかず、他人からさらりと発見されるものかもしれない、と。宮崎さんのことを知っている僕からすると、「何者か」になりたいと言い続けるほどに、宮崎さんの姿が強烈に思い浮かびます。あるいは、「弱い」と言い続けるほどに、その言葉に宮崎さんの「強さ」を感じます。この逆説的な感じは誰かに似ているなと思ったら、それは愛すべき太宰治でした。
太宰もまた、自意識に悩み、酒を呑み、非凡さに憧れていました。自分では満足できていないらしいのだけれど、ハタから見たら、あんなに平凡でない人はいない。ちょうど宮崎さんが引用する「右大臣実朝」にも、「人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」という逆説的な一節があります(「二瓶さんとの雅な蹴鞠」)。太宰治も宮崎さんも、「弱さ」について書きつらねることによって「弱さ」を反転させ、破滅から逃れているようなところがあります。それはそれでたくましく生きている感じもあります。
もっとも、太宰治も宮崎さんも、ご自身ではさまざまなことに思い悩み、苦悩されていたことと思います。他人である僕なんかには想像できないくらい。本書に書かれているエピソードのいくつかは、僕もリアルタイムで見聞きしていたものもありますが、「あのとき、宮崎さんがこんなことを考えていたのか」と驚くものもありました。
愛すべき太宰治が、数々の作品で教えてくれるのは、言葉は発した本人の意志すらも裏切るように他人に伝わっていく、ということです。「平凡」という言葉が「非凡さ」を感じさせ、「弱さ」という言葉が「強さ」を感じさせることがあるのです。この実体からの自立こそが、言葉の不思議で危うい魅力です。
宮崎さん自身も、「日常で見たものや現象を概念化し、独自の言語をつくり出す」というかたちで、言葉の魅力に触れています(「ヤブさん、原始的で狂おしい残念な魅力」)。「どこか抜けているが、純粋でおもわず微笑んでしまうもの」を「ほげ」と呼んでみたり、「プリミティヴで、残念なほど地味だが、たまらなく趣きがあるもの」を「ヤブみ」と表現してみたり(人知れずこんなことをして楽しんでいるとは、やはり「何者か」以外の何者でもない!)。
宮崎さんは「言葉をつくることとは、なにかを好きになることと似ている。そして、好きなものが増えるということは、世界が広がることでもある」と書いています。しかし、僕の考えからすると少し違います。「言葉を作ること」が「なにかを好きになること」につながるのではない。そうではなくて、新しい言葉の発明はそのまま、新しい世界を自立させることを意味するのです。宮崎さんは、その自分がつくり出した世界を「好き」になっているのです。だとすれば、僕と宮崎さんは同じものを見ていながら、まったく異なる世界を見ていたのかもしれません。
宮崎さんのことを知らない人がこの本を読んだら、どのような読書体験になるのでしょう。おそらく、宮崎さんの書く言葉の世界――それは、「平凡」が「非凡」になり「弱さ」が「強さ」になるような――に触れることで、少なからず「世界が広がる」のではないでしょうか。その「世界」が、その人にとって「好き」と思えるものであることを、まことに勝手ながら願っています。
平熱のまま、この世界に熱狂したい
世界を平熱のまま情熱をもって見つめることで浮かびあがる鮮やかな言葉。言葉があれば、退屈な日常は刺激的な場へといつでも変わる。
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