12月9日に発売された『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(宮崎智之著)は、世界を平熱のまま情熱をもって見つめることで生まれました。アルコール依存症や離婚を経験しながらも、もう一度、日常の豊かさに立ち戻ろうと決心する——。現実を乗り切るためにかつて夢日記をつけていたという「She is」編集長の野村由芽さんが、感想をご寄稿くださいました。
人生は一瞬の花火ではないのだから
わたしは学生の頃、こんなふうに夢日記をつけていた。
「おばあちゃんがみかんで映画を作ると言って、小さい房にキリで5mmの穴をあけてそこをのぞいたら、海外児童文学みたいな景色が広がっていた」
「女の子と軽い言い争いをして、言葉の裏の世界に相手を閉じ込めることに成功する」
夢日記を書いていると言うと、不思議がられて居心地の悪い思いをすることもあるけれど、自分にとっては大切なものだ。瞼の裏はオールナイトの銀幕で、「自分の頭の中でほんとうに起きた不思議なこと」への興味、日常じゃない場所にこそ自分がなりたいものや掴みたいものがあるんじゃないかという期待。なりたいもののイメージの輪郭はおぼろげにあっても職業名では言い表せず浮遊していたわたしは、夢でみたものを実在化する人になるのはどうだろう? と、夢から得たとっておきでなけなしのアイデアのひとつひとつを大事にメモに書きとめていた。夢で「いま目覚めたら現実に戻れなくなる」と暗示をかけられた日には授業を休んだこともある。夢中だった。
宮崎智之さんのエッセイ集『平熱のまま、この世界に熱狂したい』には、著者がアルコール依存症、離婚を経て断酒に取り組んで見直した、生き方の態度について書かれている。その中で、著者は人生を変化させるまでにのめり込んだ酒の「魔力」を「万能感」や「酩酊感」と表し、「仕事のストレスや、なかなか成長できない自信のなさを忘れるため」「目の前の現実から目を背けるため、朝起きた瞬間に酒を飲んだ」と振り返る。
生涯経験者は100万人以上いるというアルコール依存症は程度の差はあれ治療が必要な状態であり、著者は急性膵炎で2度入院しているわけだが、溺れる先が酒でなくても、似たような感情に覚えがある人は少なくないのではないか。成長できない、自信がない、そんな自分を忘れて一足飛びにほしいものを得たり、なにかになりたい。それが「魔力」のおかげでもいい。
著者は医師に「金輪際、もう酒はやめてください」と宣告され、わたしは「金輪際、もう夢日記をつけないでください」とは誰からも宣告されていない。だけど誰もが、自分だけがつくりだすまぼろしに包まれていれば傷つかないと現実から目を背けて、束の間、安心したい日があったのではないか。現実の日常を丸腰で生き抜くのは簡単じゃない。
そんな著者が、「酒をやめるという判断は、まさに狂気そのもの」「不確実でままならない人生を酒なしで生きるには『常に正気でい続けることの狂気』を受け入れなくてはならない」と覚悟しながらも、断酒をはじめるにあたってまず向き合ったのは、目の前にある生活を見つめ直し、かつて見たものをもう一度見ることだった。そして、自分以外の「何者か」になろうとするよりも、すでにあるもの、あったものを見て、感じることのほうが、自分の人生を豊かにできると確信するようになったまなざしで捉えた、平熱のエピソードで成り立っているのがこの本だ。読んでいるうちに、何度もめくったはずのアルバムから見落としていた写真を見つけたみたいに、静かに目がみひらかれていく。
最近読んだ90年代初めの漫画で、主要な登場人物である中2のヒロインが「日常はしずかで平穏がいちばん! おもしろい本と、おもしろい食べ物があれば、それで充分よ」と言っていて、2021年に生きるわたしは、その言葉の真理に射抜かれてしまった。夢日記を書いていた頃のわたしならつまらないと思っただろう。
だけどわたしたちは知っている。『平熱のまま、この世界に熱狂したい』で象徴的だった、「おだやかで静まりかえった、なんとも言えない海辺の街の情景」としての凪の状態。それは街の喫茶店の見慣れたコーヒーカップ、「また今度ね」のさりげない挨拶、猫がごろごろと喉を鳴らす愛しい音のようなもの。有り触れていて、ときに聴こえないほど小さいかもしれない無数のざわめきが、「しずかで平穏」だと感じられる日々を支えているかけがえのなさを、2020年をめいめいになんとか過ごしたわたしたちはもう知っている。
物書きの世界では「日常では見られないような、激しい表現、狂った人生を目撃したい」といった「熱狂型の人生が好まれる」風潮があり、自分はそうはなれなかったという著者。だけど、病院の売店で埃をかぶったアヒルの人形グエちゃんを買った際に、売店のおばちゃんが「私、このことを新聞に投書するわ!」と言ったこと。セブン-イレブンとローソン以外のコンビニをすべて概念化して「ファミマ」と呼んでいたこと。緊急事態宣言のさなか、里帰り出産をした妻と子にひと目でも会うことは不要不急なのかと窓口で尋ね、「私はそうは思いません」「外出自粛はあくまで、皆さまへのお願いです」と個人と社会の両方の言葉で言われたこと。語られなければ消えてしまいそうなそれらのシーンを掬うその態度は、花火のように華やかではないけど、灯火(ともしび)のように火を絶やさないことを可能にする。
人生は花火にたとえるよりは、もう少し時間があるとわたしは思いたい。思わず日記をつけたくなるような刺激的な毎日を送らなくてもいいのではないか。この本を書いた人が、穏やかに耳を澄ませて、この平熱の文体のままずっと書き続けたなら、どうなるだろう?
『平熱のまま、この世界に熱狂したい』は、この本で終わらないのだと思う。続いていく人生を織りなす無数の有り触れた生活が鳴らす音、活字に至らないとされてきた熱くも冷たくもない平熱の温度、それらをたずさえてこの先書かれるであろう言葉たちによって、まだ見ぬ熱狂がやってくる。
平熱のまま、この世界に熱狂したい
世界を平熱のまま情熱をもって見つめることで浮かびあがる鮮やかな言葉。言葉があれば、退屈な日常は刺激的な場へといつでも変わる。
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