アルコール依存症や離婚を経験しながらも、もう一度、日常の豊かさに立ち戻ろうと決心するなかで綴られた、宮崎智之さんの新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい 「弱さ」を受け入れる日常革命』。本書は、平易な言葉でありながらも、実は哲学に通じる普遍的なテーマがたくさんひそんでいます。前著『モヤモヤするあの人』発売時にも対談を行った斎藤哲也さんと3回にわたって語り合いました。第2回は、「人間の弱さ」を哲学的視点から考察します。
ソクラテスやプラトンは人間の愚かさに厳しい
宮崎 前編では、主に、エッセイを書くにあたって考えたことを語らせていただきました。今回、斎藤さんと対談したいと思ったのは、もちろん尊敬する先輩だからということもあるのですが、新刊の重要なテーマの一つと僕が考えている「人間の弱さ」について、哲学や倫理学の視点から斎藤さんに話をうかがってみたい、という理由があったからなんです。人の悩みや葛藤が集積されてきたのが哲学や倫理学だと思うのですが、どうなのでしょうか。
斎藤 新著のなかにも「弱くある贅沢」というエッセイがありましたね。「弱さ」って多義的な言葉なので、いちがいに話すのは難しいんですが、少なくとも「意志の弱さ」については、古代から哲学者たちが議論してきました。たとえば、プラトンの対話篇でソクラテスは、意志の弱さなんてありえないという議論をするんですね。
でも、ふつうに考えたら、意志の弱い例はいくらでもある。人間って駄目だと知っていても悪いことをしてしまったり、宮崎君の新刊でもアルコール依存症の話がでてきましたけど、よくないと思っていてもお酒を飲み過ぎたりするわけですよね。
宮崎 理性や知性で了解していても、悪い方向を選んでしまう人間の愚かさですよね。
斎藤 そう。でも、ソクラテスに言わせると、「それは本当に善いことを知っていないから」ということになるんです。非常に理性主義的というか、「悪いことを本当に知っていたら、人間はそれをしないんだ」として、知ることと行為は直結していると考えていました。
宮崎 それって結構、厳しい態度だなと、僕なんかは思ってしまいます(笑)
斎藤 そうです。厳しい。それがアリストテレスになると、「わかっちゃいるけど、やめられない」ものがあるんだという議論になってくる。これを古代ギリシア語で「アクラシア」といいます。でも、それって少し考えれば誰にでもわかることですよね(笑)。駄目なことやっている人は、周りを見渡してもたくさんいる。だた、「『わかっちゃいるけど、やめられない』をどうしたらやめられるのか」という問いの答えはなかなか見つからない。
宮崎 意思の弱さや、「わかっちゃいるけど、やめられない」を抱えて生きている人もいるのだ、と。
斎藤 というより、ほとんどの人がそうですよね。僕も人生で何度、三日坊主を繰り返したことか(笑)。その点で、アリストテレスの物分りがいい気がします。じゃあそれ以降の時代はどうなのか。すごく大雑把にまとめてしまうと、近代のヨーロッパの哲学や思想は、意志の弱い人間を理性的でないダメなやつと排除してきた流れがあります。そういうやつは、二流、三流で、人間のポンコツである、と。だから、ソクラテス、プラトンに戻るようなかたちで、理性があって、自律的に自分をコントロールできる個人が「人間」の定義とされたんですね。
しかも、そこでいう「人間」とは「西洋、白人、成人男性」だという人間像を描いてきてしまった。そこからはみ出してしまう非西洋人や女性、子どもは、理性を欠いた不十分な人間だと。そういった人々は意志が弱く、自分を律することができない存在だから、理性的存在たる白人男性が指導してやらねばならんということで、さまざまな差別や搾取が正当化されてしまった。そういう独断的な理性主義が近代西洋の思想をかたちづくってきた側面はたしかにあると思います。その意味で、意志の弱さという問題は、少なくとも西洋近代思想の中心的なテーマにならなかったんです。
社会の発展とは「弱い人間」を受け入れること?
宮崎 もう一つうかがってみたいのが、一方で資本主義というものがあるじゃないですか。各々が各々の利益を追求し、経済活動をしていくことで豊かになり、その過程でいろいろ問題がありつつもいい方向に進んでいく。弱い人間も受け入れられる社会になっていく。でも、新型コロナ以降はとくに、資本主義を含めた経済、社会システムが再考され、今、僕が言ったようなことは楽観主義すぎるという意見も出てきている。そういう認識であっていますか?
斎藤 「弱くある贅沢」のなかでもそういう記述がありましたね。たぶん、資本主義というより近代社会という方向で考えたほうがいいと思うんです。近代社会は一方で、「弱い人間」を社会的につくりだして、排除していったわけですよね。根拠のない優生学によってユダヤ人を抹殺しようとしたナチスは、その最悪のケースです。ようやく第二次世界大戦が終わって、人権や平等という理念がまがりなりにも広がっていった。そう考えると、私たちが「弱い人間も受け入れられるようになった」と感じられるようになったのは、ごく最近のことかもしれません。それでも、アメリカを見れば明らかなように、いまだに差別はなくならないし、社会的弱者にとって生きやすい世の中になっているとはいえませんが。
宮崎 本当にそうですね。一方で、とはいえ現代は格差の問題などが顕在化されつつも、全体的には昔と比べれば豊かでマシな社会になっているともとらえられる、という言説もあります。そうでない側面もたくさんありますが、僕のアルコール依存症なんかだって、昔だったら、ただのだらしない人だと思われてしまい、ひどい状況のまま亡くなった人も多かったでしょう。でも、今ではきちんと病気だと認識されて、治療方法が確立したり、治療薬が開発されていったりしている。
斎藤 近代という枠でとらえれば、まあそうですよね。ただ、経済の発展や、医療やテクノロジーの進歩によって豊かになっていくことと、弱さの問題は切り分けて話したほうがいいかもしれません。
宮崎 そうですね。社会が豊かになっても、やっぱりこぼれ落ちてしまう人は必ずいるし、「『わかっちゃいるけど、やめられない』をどうしたらやめられるのか」という問題は解決されていないわけですから。すみません。ここでさっきの話に戻ってきましたね。経済の発展や、医療やテクノロジーの進歩、そして福祉の充実やさらなる制度の整備など政策面のことはあるとして、哲学や思想の分野では、そのへんはどのように議論されていきているのですか?
斎藤 「わかっちゃいるけど、やめられない」行為をどう評価するかという問題と考えると、近代の哲学は、ある行為が正しいかどうかを、何らかの理論から導こうとしてきたんですね。いくつか代表的な議論がありますけど、たとえば「功利主義」と呼ばれる思想があります。簡単にいうと、社会全体の幸福量を最大にする行為はよい行為で、それをマイナスにする行為は悪い行為だと判定する。だから宮崎君がお酒を飲んで、一人で気持ちよくなっているぶんには、それはよい行為なんです。でも、飲みすぎで体を壊して、病院の厄介になったり、他人に暴力をふるったりということになったら、社会全体の効用が下がるわけだから、それは悪い行為になるわけです。
社会全体の利益からこぼれおちる人たち
斎藤 ただね、人間のほとんどの組織は、功利主義から逃れられない側面がある。乱暴な言い方をすれば、「綺麗事」って功利主義のことなんですね。だって、できるだけ多くの人を幸せにしたいとか、できるだけ多くの人を救いたいというのは、まさに功利主義の目指すところだから。ただ、それって、どうしても個別の、ある個と個の関係を考えるのには向かない議論でもあるわけです。
宮崎 なるほど。新刊に収録したエッセイ「私はそうは思いません」では、僕と出産を控えて里帰りしていた妻が、新型コロナの感染拡大によって離れ離れになってしまったときの経験を書きました。僕たち夫婦としては、初めての出産にあたって極度に緊張が高まったし、無事に出産できたとしても、いつ合流できるかわからない不安があった。そして妊娠、出産に至るまでに、誰だってそうですけど、僕たち夫婦にはどの夫婦とも交換不可能な、固有の物語や葛藤、苦労があった。いろいろなものを乗り越えてきたつもりだった。でも、そんなことは、緊急事態宣言下では考慮されない。外出自粛要請という一言に押し込まれてしまう。
もちろん、政治や行政を運営しているのは人間ですから、きちんと相手に話せば僕のこともわかってくれるかもしれない。僕の人生についても了解してくれるかもしれない。でも、公の立場としては、どこまでも外出自粛要請の一言でしか対応してくれず、もどかしさを感じる。個人と社会の立場が対立した時に、どうしても個人がないがしろにされてしまう。これはコロナ以前からある問題であり、僕がたまたまコロナ以後に強く実感したことであって、ずっとそういう立場に晒されてきた人、マイノリティとして抑圧されてきた人たちがいる。功利主義は、それでも大きな母数の利益のためなら仕方ないという立場なのでしょうか?
斎藤 功利主義的に考えれば、マイノリティが抑圧された状況は、社会全体としても幸福ではないわけだから、富の再分配や機会の平等を保障することは是とされるわけです。ただ、宮崎君がエッセイのなかで綴っているような逡巡に対して、理性や論理で正当化できるような答えは出てこないんですよね。
でも、私たちの日常の多くは、簡単に答えの出ない選択の連続です。そして私たち自身も、功利主義的に考えて行動しているわけじゃないですよね。こうしたら、社会の幸福量が最大化される、なんて考えながら暮らしていないじゃないですか(笑)。たとえば目の前に困っている人がいたとして、助けるにしてもそうでないにしても、その瞬間に社会全体のことなんて考えていないし、その時の状況などによって、困っている人への対応も変わってくる。
だから、思想の分野でも、私たちの日常を考えるうえで、理性や論理によって道徳を正当化するような正義の倫理だけでは不十分で、具体的な状況のなかで他者の求めやニーズに寄り添うことに光をあてる議論が20世紀後半に登場しました。それが「ケアの倫理」と呼ばれるもので、現在にいたるまで、フェミニズムや社会学、人類学、ジャーナリズムなど、さまざまな分野でその重要性が議論されるようになっています。
宮崎 自分の体験と照らし合わせても、すごくふに落ちるお話でした。でも、まだまだ疑問点や聞きたいことがたくさんあって(笑)。もう少しだけお付き合いいただけると幸いです。
(後編につづく。1月21日公開予定)
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