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探究する精神

2021.04.16 公開 ポスト

知的好奇心が人間にもたらす「幸せ」と「災い」大栗博司

世界的に活躍する物理学者・大栗博司さんが、自身の半生を振り返りながら、研究の喜びや基礎科学の意義について論じた『探究する精神――職業としての基礎科学』からの抜粋を、3回にわたってお届けします。第3回は、科学者の好奇心と社会の倫理のせめぎ合いについてです。記事の最後には、オンラインで開催する刊行記念イベントのご案内があります。こちらも合わせてご覧ください。

(写真:iStock.com/phokin)

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科学の発見は善でも悪でもない

知的好奇心は科学者を自然現象の解明に駆り立てます。私は仏教学者の佐々木閑(しずか)さんとの共著『真理の探究』で、人間の知的欲求について、「どんなものでも、その機能が発揮できるときが幸せなのだと思います」と書きました。たとえば、我が家で飼っているテリアは本来は猟犬なので、野原でリスや小鳥を追っている時の方が生き生きとしています。人間の場合には、デカルトが「われ思う故にわれ有り」と書いたように、意識があること、考えることができることが生きていると感じることの根幹にあります。そこで私はこのように結論しました。

「より深く、より正しく物事を理解しようとすることが、意識の本来の機能です。より深く物事を理解する方が、より深い幸せにつながると思うのはそのためです。」

しかし、科学者は自然現象の解明という機能を発揮することで、自らの倫理観と矛盾してしまうことがあります。たとえば、科学や技術の極限を要求する軍事技術の開発にはチャレンジングな問題が多く、科学者の好奇心を刺激します。しかし、その結果が人類に大きな災厄をもたらすこともあるのです。

基礎科学の研究も人類の知識の境界を広げようとするので、科学や技術の極限を求めます。そのため基礎研究から生まれた技術が思いがけない応用を持つことはよくあります。たとえば、素粒子物理学の研究所であるスイスのCERNでは、何千人もの研究者が情報を共有するために、インターネット上で情報をやりとりする「ワールド・ワイド・ウェブ」が発明されました。今やその恩恵を受けていない人はいないでしょう。

基礎科学の発見は、それ自身では倫理的に善でも悪でもありません。そもそも発見された段階では、どのような実用性があるのかもわからないことが多い。そのため科学の発見は「価値中立的」であると言われます。ここでの「価値」とは社会の役に立つかとか、害をなすかという意味です。発見そのものの学問的価値のことではありません。これは、19世紀末から20世紀はじめに活躍した社会学者マックス・ウェーバーが、科学のあるべき姿として、政治、倫理、社会、経済などの価値判断から独立な知識体系を表現するために使った言葉です。

価値中立的な発見に社会的・経済的な価値を見つけ実用化することは、それ自身が科学とは別の創造的な仕事です。たとえば、理化学研究所を純粋科学を追究する研究部門とその発見を新製品につなぐ開発部門に分け、研究部門の発見を開発部門で実用化し、次々にベンチャー企業を立ち上げていった大河内正敏は、「価値中立的な科学の発見に価値を見出す」という創造的な仕事をしたのです。

科学の発見に軍事的価値が見つかってしまうこともあります。たとえば、浮世離れした学問と思われる天文学でも、観測のための最先端技術が軍事に転用されることもあります。そのため米国では天文学の大きなプロジェクトに中国の科学者の参加を禁じる場合が増えてきました。軍事的に価値のある技術を盗まれることを恐れているからです。

軍と天文学者が、一方は軍事のため、もう一方は基礎科学のために、同じ技術を独立に発明したこともあります。米ソ冷戦の最中、米国国防総省はソビエト連邦のスパイ衛星を追跡する技術を開発していました。しかし、地上から人工衛星を撮影しようとすると、大気の揺らぎが画像をゆがめてしまいます。この問題について相談を受けた科学者たちは、大気圏の上空にナトリウムの層があることに着目し、そこにレーザー光を当てて光らせることを思いつきます。上空のナトリウムからの光で大気の揺らぎを観測すれば、スパイ衛星の画像を修正できるのです。補償光学と呼ばれるこの技術は軍事機密にされました。

ところが、フランスの天文学者が天体観測のために同じ技術を発明し、論文として発表してしまいます。国防総省はそれまで機密にしていた技術を公表せざるを得なくなりました。大気の揺らぎを観測して画像を修正する技術は、それ自身は「価値中立」で、それが軍事にも基礎科学にも使いうるという例です。

最近急激に発展している量子コンピュータやAIの技術なども、それ自身は価値中立です。人間の生活を改善することに使える一方で、軍事への応用も可能です。量子コンピュータの技術は敵国の暗号の解読に使える可能性があるので、米国の国防総省は大きな研究投資をしています。ビッグデータの技術が政治に悪用されることも問題になっています。

村上陽一郎が『新しい科学論』で指摘しているように、「科学はもともと人間の営み」であり、「人間や人間社会から切り離され」て存在しているわけではありません。ハイゼンベルク、朝永、ダイソン、ファインマンらの葛藤は75年以上も前のことでした。しかし知的好奇心と倫理的な善との矛盾は今日的な問題でもあります。科学者や技術者を志す人は、彼らの回想を読んで自分だったらどうするだろうと考えておくのもよいことだと思います。

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本書の刊行を記念して4月18日(日)午前10時よりオンライントークイベント「勉強って何のためにするんだろう?」を開催します。トークのお相手は東京大学教授・横山広美さん。中学生・高校生や、文系出身の方にもお楽しみにいただける内容です。詳細・お申し込みは「幻冬舎大学のお知らせ」からどうぞ。

関連書籍

大栗博司『探究する精神 職業としての基礎科学』

自然界の真理の発見を目的とする基礎科学は、応用科学と比べて「役に立たない研究」と言われる。しかし歴史上、人類に大きな恩恵をもたらした発見の多くが、一見すると役に立たない研究から生まれている。そしてそのような真に価値ある研究の原動力となるのが、自分が面白いと思うことを真剣に考え抜く「探究心」だ――世界で活躍する物理学者が、少年時代の本との出会いから武者修行の日々、若手研究者の育成にも尽力する現在までの半生を振り返る。これから学問を志す人、生涯学び続けたいすべての人に贈る一冊。

大栗博司『重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る』

私たちを地球につなぎ止めている重力は、宇宙を支配する力でもある。重力の強さが少しでも違ったら、星も生命も生まれなかった。「弱い」「消せる」「どんなものにも等しく働く」など不思議な性質があり、まだその働きが解明されていない重力。重力の謎は、宇宙そのものの謎と深くつながっている。いま重力研究は、ニュートン、アインシュタインに続き、第三の黄金期を迎えている。時間と空間が伸び縮みする相対論の世界から、ホーキングを経て、宇宙は10次元だと考える超弦理論へ。重力をめぐる冒険の物語。

佐々木閑/大栗博司『真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話』

心の働きを微細に観察し、人間の真理を追究した釈迦の仏教。自然法則の発見を通して、宇宙の真理を追究した近代科学。アプローチこそ違うが、この世の真理を求めて両者が到達したのは、「人生の目的はあらかじめ与えられているものでなく、そもそも生きることに意味はない」という結論だった。そのような世界で、人はどうしたら絶望せずに生きられるのか。なぜ物事を正しく見ることが必要なのか。当代一流の仏教学者と物理学者が、古代釈迦の教えから最先端の科学まで縦横無尽に語り尽くす。

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探究する精神

世界で活躍する物理学者が、少年時代の本との出会いから武者修行の日々、若手研究者の育成にも尽力する現在までの半生を振り返る。これから学問を志す人、生涯学び続けたいすべての人に贈る一冊。

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大栗博司

カリフォルニア工科大学 ウォルター・バーク理論物理学研究所所長、フレッド・カブリ冠教授、数学・物理・天文部門副部門長。東京大学カブリIPMU 主任研究員も務める。1962年生まれ。京都大学理学部卒、東京大学理学博士。東京大学助手、プリンストン高等研究所研究員、シカゴ大学助教授、京都大学助教授、カリフォルニア大学バークレイ校教授などを歴任。専門は素粒子論。2008年アイゼンバッド賞(アメリカ数学会)、高木レクチャー(日本数学会)、09年フンボルト賞、仁科記念賞、12年サイモンズ研究賞、アメリカ数学会フェロー。著書に『重力とは何か』『強い力と弱い力』(幻冬舎新書)、『大栗先生の超弦理論入門』(ブルーバックス)、『素粒子論のランドスケープ』(数学書房)がある。

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