一雫ライオンの長編小説『二人の嘘』が先日刊行された。
「十年に一人の逸材」と言われる女性判事と、彼女がかつて懲役刑に処した元服役囚。
そんな二人の濃密な関わりを描いたこの小説が、話題となっている。
刊行を記念して、プロローグと第一章を公開する。
人が人を裁くとは、かくも難しいものなのだった。
* * *
法壇の奥にあるドアを開け、合議室と呼ばれる小部屋に戻る。市民六人の裁判員たちの表情からは疲労がうかがえる。
「いや──こんなに疲れるとは」
六十代の、やや肥満気味の男が息を漏らした。男は下町で車の部品を作るちいさな会社を経営している。
「まったく。ちょっと想像以上だった」
これは五十代の貿易会社に勤める男の発言。男はなおも、
「いやね、じぶんで言うのはなんなんですが、会社でそこそこのポジションなんですよ。貿易の仕事を長くやってるんで、外国の人間ともああじゃない、こうじゃないとやり取りするし。でもこれは、どんな会議よりも疲れる」とつづけた。
その他には、髪の毛を肩まで伸ばしたバンドをやっているという三十代の男性、六十代の専業主婦、四十代の信用金庫に勤める男、おなじく四十代のWebデザイナーの男が裁判員として選ばれていた。一様に、声には出さずとも疲れている。
礼子は面々の顔をちらりと見て、「ほんとうに裁判員裁判に選ばれる市民六人は、国からランダムに選ばれているのだろうか?」といつもの考えが浮かぶ。ランダムに選んでいるという割にはいつも、年代も丁度よく分かれているし、男女の割合も「男だけ六人」も「女だけ六人」も目にしたことはない。だいたい、「女性も平等に参加させております」という塩梅の組み合わせだ。
が、国がやっていることに礼子は口を出す気もない。裁判官は国から雇われる国家公務員であるし、そもそも礼子はそういう点に冷ややかだ。
「でも、驚きました」
六十代の優しそうな主婦が呟く。
「もっと、極悪人のような顔──被告人は、そういうなんて言うんでしょう……もっと、悪い顔をしているんだろうなと勝手に思っていて。じぶんの母親を殺すっていうんだから。でも、そのイメージの逆というか、なんていうか」
「まあ、弱そうでしたよね」
バンドでギターを担当しているという男が代弁した。
「無職といっても、働けない事情のある人間はたくさんいるし、まあ……十年以上、母親を介護してたっていうのもね。介護って、綺麗ごとですまないからね」
じぶんも母親を看取ったという小太りの経営者が、やや被告人に同情するような口調で話した。
人を殺す。
裁判員裁判に参加する市民は、ほぼ間違いなく「人を殺めてしまった人間」と人生で初めて、法廷で接する。良心を持ち社会に適応できる人間たちは、そのような人間を「悪い奴」と捉える。これは至極自然なことだと礼子は思う。
が、現実は逆といってもいい。
法廷で初めて目にする殺人者は、一様に弱い。
裁判員に選ばれる市民六人も、立場はばらばらである。肩まで髪を伸ばしたバンドマンは、貿易会社のお偉いさんと交わる生活は送っていないだろう。収入も、申し訳ないが世間に認知されていない以上、バンドマンと貿易会社の人間とはゼロの数が違うかもしれない。
が、社会的立場に差がある彼らも、前科はない。
選ばれた裁判員だって、生きてきた過程で頭にくることは日々たくさんあるだろうし、居酒屋で「ほんと、あいつ死なねえかな」などと誰かのことを愚痴った人もいるだろう。が、結果、死に至らしめたことはないのである。普通に、生きてこられた人間なのだ。
この差は圧倒的におおきい。
普通である人間と、そうでない人間。
強者と、弱者。
本日の被告人柳沢一成は、身形を見てもわかるが、服や靴を差し入れてくれる友人も肉親もいないのだろう。礼子は開廷する前、この合議室で彼の足音を聞いた。入廷し、ぺた、ぺたと気弱そうに歩を進めた音は、一瞬止まった。それは柳沢一成が被告人席へ着く前に立ち止まった、ということを意味する。なぜ止まったのか。それはきっと、傍聴席に座る人間を見て怯えたのだ。四十人ほどの傍聴人を目の当たりにし、見ず知らずの、じぶんとはまったく関わりのない人間たちがじぶんを見つめることに、ぎょっとし、怯えたのだ。
その、まなざしに。
礼子が見つめるなか、柳沢一成は証言台にひとりでむかう時も、弁護側の席に帰る時も、必死に傍聴席を見ないようにしていた。それは裁かれる立場としての恐怖心ではない。彼が、多くの人に見つめられた経験のない人間だからである。「人間関係がうまくいかず、退社」というのも真実だと礼子は思う。
彼はただただ、見ず知らずの人間に見つめられる環境が、怖くてしかたなかったのである。四十半ばの男が。これが、強者であるわけがない。
「あの拘置所で書いたっていう手紙もね、読み上げられてる時の柳沢の顔を見てると、ねえ」
「どれくらいの罪が妥当なのかね」
疲れと同時に興奮も覚えている裁判員を制止するように、内山判事補が「とりあえず、お昼ご飯を食べちゃってください」と告げ、一同に合議室への戻り時間を確認し、礼子たちは部屋を後にした。
裁判員と別れると、自然と礼子の足は速くなる。内山も礼子についていくように、歩を進める。
裁判の合間の昼休憩は無駄にしたくない。礼子は刑事第十二部の裁判官室に戻ると、すぐに自席に着き背を正す。
膨大な量の判決文を起案しなければいけないのである。
司法修習生を終え裁判官に任命され十年務めると、「判事補」の立場から「判事」に変わる。殺人罪や傷害致死罪などを扱う合議審の際は裁判長の右隣に座る「右陪席裁判官」となり聞こえはいいが、日々の業務は激務を極める。裁判は人を殺めたものばかりではない。
当たり前だが、スーパーでツナ缶を万引きするほうが、圧倒的に人を殺めるより件数は多いのである。単独審と呼ばれるそのような裁判は、右陪席裁判官となった判事がひとりで行う。内山はまだ裁判官任官二年余りで、単独審が行えない。なので現場に立つ礼子は日々、合議審と単独審の両方の裁判を受け持たなければならない。よって裁判所から右陪席裁判官に求められるのは、
「単独審をいかに多く、すばやく裁くか」
これにかかっている。
礼子は息つく暇もなく、机上にあるツナ缶や焼酎などの窃盗、覚醒剤、詐欺、わいせつの類の判決文を書いていく。
一方、三人で使うには広すぎる裁判官室の別の席では、内山が猫背気味に前傾姿勢をとりながら、判決文を起案している。裁判官任官十年未満の判事補の責務もおおきい。
彼ら判事補は、合議審の判決文を起案する立場なのである。この柳沢一成の公判もそうだ。懲役何年に値するか、執行猶予はつけるか、つけないか、すべて判事補である内山が考えるのである。その判事補が書いた判決文を右陪席裁判官の礼子がチェックし、最終的に裁判長である小森谷が確認し了解したのち、公判の最終日、被告人に判決を言い渡すのである。判事補に合議審の判決文を起案させるのは、彼らに経験を積ませるためだ。が、最難関の司法試験をクリアできる頭と、司法修習を積めば誰にでもできると礼子は考える。
それほど日本の司法はシステマティックと言ってもいい。良し悪しは別だが。
内山がペンを走らせながら、
「下から出前取りますけど」
と礼子に告げる。東京地裁の地下には食堂、コンビニ、チェーン店の牛丼屋がある。礼子はよほどのことがない限り、地下で食事をすることはない。一般の傍聴人や弁護人、検察官と誰でも利用できるため、顔を合わせたくないからだ。それに大勢の人がいるところが、元来礼子には性に合わないきらいがある。
「いい。パン買ってきてあるから」
礼子も判決文を書きながら答える。机上に並ぶ覚醒剤も窃盗もわいせつという言葉も、もはや礼子にとってはなんら感情を湧かせるものではない。量刑を決めるべきただの単語だ。
「すみません。確認よろしいですか」
気づくと礼子の隣に内山が立っていた。礼子は内山が起案した、柳沢一成の判決文を横目で見る。
「違う。量刑の過去データ、よく見なさい」
内山がため息も漏らさず自席に戻る。右陪席裁判官の激務の原因のひとつがこれだ。やはり経験の少ない判事補は、時に判決文を間違える。その確認、修正の指示を礼子はしなくてはいけない。刑事裁判において、間違いは決して許されないのだ。礼子は強くそう思っている。
礼子が朝、自宅最寄り駅のコンビニで買ってきたランチパックは封も開くことなく、鞄のなかに放り込まれたままだった。
一時間半の休憩時間中、礼子は美しく長い髪を後ろに引きつめゴムで結んだまま、大量の判決文を書き、やがて裁判官室を出ていった。
(つづく)
二人の嘘
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