ヒリヒリとした言葉が突き刺さる、上野千鶴子さんと鈴木涼美さんによる『往復書簡 限界から始まる』が話題です。男女の非対称性がはびこる日本社会で女性が生きることに真正面から向き合う本書は、共感か、反発か、自分のなかで蓋をしていた感情が刺激されることは間違いありません。国際政治学者の三浦瑠麗さんは、どのように読まれたのでしょうか?
上野千鶴子の本気を引き出す鈴木涼美の痛み
上野千鶴子と鈴木涼美とのあいだをローテクなお便りが行き交う。身体と精神に刻み込むようにして女であるということを考えてきた二人であるが、年代が離れ、自意識の持ちようも異なる人間同士のあいだにこのような率直な対話が成立するのは稀なことだ。読み進むと、共通する教養の土台のうえに、上野千鶴子が相手に切り込む言葉が響き、ときに火花を発するように閃いてその真骨頂を示す。その鋭さは、上野が自分を含む女のことをきちんと見つめてきたゆえだろう。
こうした目的のある語りには、名宛人がいなければならない。往復書簡方式で鈴木涼美の発する疑問に応え、あるいは言葉で揺さぶりをかけるために、上野千鶴子は自己について「これまでどこでも言わなかったこと」をごまかしなく開示している。それは編集者によるなかなかのたくらみの結果であると同時に、上野の親戚の娘のような世代である鈴木涼美が、どうしようもなく痛んでいることをさらけ出しているからでもあるだろう。
彼女の質問には本気で答えなければいけない。そのためには自らの歴史によって語らしめるほかはない、と。
周知のとおり、上野千鶴子はあまり自らの心情について語る人ではない。年月を重ねるなかで女として様々な絶望を経験してきたことは想像に難くないが、死闘を繰り広げつつも奈落に陥ることを避けられたのは、知の働きを止めなかったためではないか。そんな上野にとって、この対話は自分語りを強要されるのではなくて、むしろ自ら進んで経験を共有することへとつながったように思う。
素直、といえばあまりに素直な鈴木涼美の独白は、上野への信頼のもとに発話されたものでもあるが、そもそも鈴木涼美の生き方はそのように傷口をさらけ出しているところに特徴がある。単なる自嘲ではない。すべてをさらけ出しているようでありながら、周りの人間は彼女の心の奥にやすやすと触れることはできない。
「男には何も期待できない」「男に対して理解し合えるという希望を持てる若い世代がうらやましい」そう言いながら、鈴木からは余熱の冷めやらぬ侘しさが感じ取られる。女のどうしようもなさを抱えたまま。そう、それが孤独だ。鈴木が恋愛というものに期待を見出せずにいるのは、決して恋愛をしたことがないからではないだろう。それだけ、男との邂逅における彼女の絶望は深かったということだ。
上野は孤独を見出しているからこそ、恋愛を、死闘を通じて他者が絶対的に隔絶した存在であること、決して所有もコントロールもできない存在であることを確認し合う行為であると説く。そして、「愛は……自分の人生を相手の人生に賭けようという決断の行為である」「一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ」というエーリッヒ・フロムの『愛するということ』のくだりを引用する。……鈴木涼美の父の手による訳文だ。
上野千鶴子の引用するこのくだりは正論であるし、十分に欲望され、自らも欲望し、孤独にもがきながら相手と格闘する人生をずいぶんと経験した後に収まる述懐としては、私も深く首肯する所がある。だが、本当に私たちはそれを乗り越えられるのだろうか。いま差し迫った女の苦しみについてはどうすればよいのだ?
愛するに足らない人を愛してしまう自分に対する絶望。そして、結局は男に愛されなかったのではないか、と感じてしまうあの絶望である。もっと具体的に言えば、つきあっている男による、性にまつわる言葉や行為による「暴力」が、じわじわと自身を侵していくことへの絶望と、それを許容した自身に対する言いようのない不快感と自尊心の傷。それを招来したのは自分ではないかと、かえって自らをどぶに捨てたくなるような感情。これらの感情は、本書の中で、男と違って「精神(観念)に身体を従わせる」女の行動として一部描き出されている。それぞれに違う道を通っているとはいえ、この問題を自らの中に見出さない女はおそらくいないだろう。
さらに、自身のその「精神」でさえ恋愛という言葉で言いくるめられず、それを疑ってしまうような知覚能力は苦しみをさらに深める。鈴木涼美は、ブルセラに通う少女の下着を求めて集まる客として邂逅した男たちを、理解のしがたい醜い存在として描き出す一方で、自分自身に対してもすこぶる容赦のない目を向けている。身体を差し出すことに金銭に限らない何らかの対価を期待する自分にも、欲望されることへの欲望で簡単に寝てしまう自分にも、これは恋愛ではなく欲求されること自体への執着ではないかと訝る自分にも。
鈴木涼美という人がふつうの女性と違うとすれば、自由がふんだんにあった環境において、恋に恋することができるほどナイーブではなかったこと。始まりの違いはきっとそれだったのだろうと思う。様々な経験をして、絶望を深めた彼女が、今後求めるものは何だろうか。女であることに窒息しながらも、しばらくの間、自らの欲望に付き合ってみることを選んでいるのではないかという気もする。少なくとも、鈴木涼美が文章という手段を得ていることを私は嬉しいと思う。
こうして対話を読み終えても、人間の欲望のあり方を設計しなおすことは不可能に見える。女であることはたいへんに難しい。だけれども、私はこの本を閉じて、やっぱり女であることを福音だと思うのだ。
往復書簡 限界から始まる
7月7日発売『往復書簡 限界から始まる』について
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