絶賛発売中の『読んでほしい』は、放送作家の主人公が、初めて書いた小説を、誰かに読んでほしいのに、いつまで経っても読んでもらえない、悪戦苦闘の日々を描いた物語。
友人がポッドキャスターになっていた!彼のやっているというカフェへ行った主人公緒方。
* * *
「どうぞ」
白いマグカップから湯気が上がっている。酒のあとには最高のご馳走だ。私は遠慮なくコーヒーをいただいた。
矢方君は、自分を救ってくれたPodcastを配信するため、このカフェを作った。
「ここで、そのポッドキャストというのを収録しているの?」
「そうです。ここで週三回ほど収録しています」
矢方君は四つの番組を制作し、世に送り出しているという。
無論、スポンサーなどいない。いつかお金を生み出すことを信じて喋り続けている。その生活は、夢を見るミュージシャンや若手芸人のようだと私は思った。
階段下の扉からカラカラと小さな鐘の音が鳴った。こんな時間に誰かと思ったら、白髪の女性が腰を少し丸めて階段を上がってきた。
「あら、いらっしゃいませ」
しわくちゃな笑顔で私に声をかけてくれた。年代は私の母親ぐらいに感じた。七十歳は超えているであろうが、薄化粧で、気品を感じさせる可愛らしいおばあさんだった。
「今日は休みだよ。こんな時間にどうしたの?」
「いやー明日のモーニングの準備をしようと思ってね」
「緒方さん。うちの母です」
「お母さんでしたか。緒方です。初めまして」
薄化粧の女性は、矢方君のお母さんだった。
名古屋の喫茶店は独特な文化を形成していて、モーニングというものがある。モーニングとは、コーヒー一杯の値段で、トーストや、ゆで卵がつくサービスのことだ。そのサービスは年々過剰になり、うどんや、おしるこを出すお店もある。《なんで今さらCAFE》でも、そのモーニングを出しているみたいだ。
「お母さん。モーニングはやめようと言ったでしょ」
「ダメよ。朝から楽しみにしている人がいるんだから」
矢方君のお母さんはそう言いながら、厨房に向かっていった。
「モーニングを出すと赤字が重なっちゃうんですよね」
しかめっ面した矢方君が呟いた。
「そうなんだ。優しいお母さんだね」
「優しいのか? どうなんでしょう。本当にモーニングはやめたいんです」
「そんなに売り上げが変わるの?」
「変わりますよ。一度出してしまったカツ丼が、やめられないんです」
「カツ丼!?」
このカフェの近くは学生街らしく、一度試しに出してしまったモーニングカツ丼が評判になり、カツ丼目当ての朝客が増えてしまったそうだ。今では、やめるにやめられず、赤字になろうが続けているという。
「コーヒーにカツ丼とは凄いね」
「ですよね」
矢方君は俯きつつ、ため息をついた。
「お菓子出しますねぇ」
厨房からお母さんが、『ぱりんこ』を持ってきてくれた。
「ありがとうございます。お気遣いなく」
「いいえ。博のお友達ですか?」
「はい」
「コチラの方は緒方さんといって、昔アルバイトの時にお世話になった先輩なんだ。放送作家をされているんだよ」
「そうですか。それは凄いですね」
「凄くなんかないです」
凄くなんかない。得体の知れない私の職業は、何一つ凄くない。いや、凄い放送作家はたくさんいるが、私は微塵(みじん)も凄くない。褒められると自己嫌悪に陥ってしまう。
今まで何度も経験したことだ。
「で、放送作家って何ですか?」
「ちょっと! お母さん! テレビの仕事だよ! テレビの!」
先輩の私を気遣い、矢方君は焦っていた。しかし私は、全く失礼とは思わない。むしろ救われた気分だ。お母さんの正直な質問は、私の中にはびこる自己嫌悪を一掃してくれた。
「テレビの仕事ですか。博もテレビに出たことあるんですよ」
「やめろよ。お母さん、恥ずかしいよ」
「昔、東京に博がいた時ね。時代劇に斬(き)られ役で映ったんですよ」
「正確に言うと、斬られ役の人の横にチラッと映ったね」
矢方君は、はにかみながら訂正した。
「この子、夢ばっかり大きくて、俳優になるんだって言い出して、名古屋でもやって、その後は東京で。結局、ものにはなりませんでした。それで、戻ってきたら……ポットなんとかってのを始めましてね」
「何回、教えればいいんだよ。ポッドキャストだよ」
「そうそう。ポッドキャスト。何だかわかりませんが、ラジオみたいなもので、私も、ハマっちゃいましてね。聞くととっても楽しいんです」
お母さんは本当に嬉しそうな笑顔で、楽し気に、私に語ってくれた。
母親というのは、いつまでも子供のことが可愛いんだなと思う。矢方親子の会話は、ほっこりとした優しい空気を私に提供してくれた。
「緒方さんは、ポッドキャストを聞いたことはあるんですか?」
「いや、申し訳ないです。無知ですみません。今日、矢方君に教わりました」
「だったら是非聞いてみてください。面白いですよ」
「いいよ、お母さん。宣伝は」
「何を言っているの! 宣伝しないでどうするの」
親子の小競り合いが始まった。
「矢方君。よかったら聞き方教えてよ」
「えぇ! いいんですか!」
さっきまでの矢方君からは想像もつかないほどの喜び方だった。
「じゃあ、教えますね」
矢方君は興奮を抑えながら私に自分の番組の聞き方を教えてくれた。
「じゃあ家に帰ってゆっくり聞くね」
「ありがとうございます」
「夜も遅くなってきたんで、そろそろ帰るね。今度はお客さんとして来るよ」
「ありがとうございます」
矢方君は頭を下げお礼を言ってくれた。横を見ると、お母さんも頭を下げてくれていた。
私も頭を下げ、階段を降りた。矢方君も付いてきて、見送ってくれるようだった。
「じゃあ。今日は最高の夜だった。またね」
「はい」
私は別れを告げ、家に帰ることにした。
家に帰ることにした。
家に帰ることにした。
家に帰ってはダメだ。
ビッグチャンスじゃないか、緒方正平。今、間違いなく交換条件として成立させるチャンスじゃないか。
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読んでほしい
放送作家の緒方は、長年の夢、SF長編小説をついに書き上げた。
渾身の出来だが、彼が小説を書いていることは、誰も知らない。
誰かに、読んでほしい。
誰でもいいから、読んでほしい。
読んでほしい。読んでほしい。読んでほしいだけなのに!!
――眠る妻の枕元に、原稿を置いた。気づいてもらえない。
――放送作家から芸術家に転向した後輩の男を呼び出した。逆に彼の作品の感想を求められ、タイミングを逃す。
――番組のディレクターに、的を絞った。テレビの話に的を絞られて、悩みを相談される。
次のターゲット、さらに次のターゲット……と、狙いを決めるが、どうしても自分の話を切り出せない。小説を読んでほしいだけなのに、気づくと、相手の話を聞いてばかり……。
はたして、この小説は、誰かに読んでもらえる日が来るのだろうか!?
笑いと切なさがクセになる、そして最後にジーンとくる。“ちょっとだけ成長”の物語。
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