東京都内で連続殺人が発生。凶器は一致したものの、被害者たちに接点は全くなく、捜査は難航を極めた。そしてネットメディアにあげられた犯行声明。過去のトラブルで心を壊したベテラン刑事・田伏とITオタクの新米・長峰がタッグを組み、必死で犯人を追うが——。SNSの功罪、格差社会の現実を描き切る傑作警察ミステリー『血の雫』(相場英雄著、幻冬舎文庫)から、試し読みをお届けします。
『流言の量は問題の重要性と状況のあいまいさの積に比例する
Rumor = Importance × Ambiguity』
……G・W・オルポート&L・J・ポストマン
プロローグ
▼河田光子の事情
保湿クリームを唇に塗ったあと、河田光子はポーチからシャネルの真っ赤なリップグロスを取り出した。グロスを唇の中心に乗せ、ゆっくりと口角に向けて徐々に薄くなるよう伸ばす。唇を軽く合わせ、具合を確認していると、店の専属へアメイクの声が耳元で響いた。
「巻きもスプレーも済んだわ」
光子は鏡の横に置いたスマートフォンを取り上げ、カメラを起動させた。わざと唇を尖らせる。さらにスマホの角度を調整し、セットしたばかりの巻き毛と口元がフレームに収まるよう自撮りした。
光子は素早くテキストを打ち込み、写真を投稿した。日になんどか更新するインターネットの写真共有サイト、インスタグラムだ。
「フォローしてもいいですか?」
隣席でメイクしていた女が言った。光子はスマホの画面を女に向けた。
「へえ、サキさんて、本名はミツコさんっていうんだ」
店で使うサキという名前は、オーナーが勝手に決めた。光子は隣の女の手にあるスマホを覗き込んだ。自分と同じようにローマ字で名前を公開している。
「あなたの本名はユミちゃんね」
ユミが肩をすくめた。光子は半年前から週に三日の割合で六本木のキャバクラに勤めている。本業だけでは生活できないので、愛想笑いと引き換えに日銭を稼ぐ。
「光子さんって、モデルさんなんですね」
「駆け出しだけどね」
「へえ、ハンドモデルもやっているんだ」
光子がメイク前に投稿した写真を、羨ましげに見ている。ファッションショーや雑誌のモデルとしては月に一、二度しか出番がない。その代わり子供の頃から長かった両手の指を磨きあげ、金に換えている。
「ちょうどネイルを変えたばかりだったから」
髪を巻き上げているユミの目の前で、光子は左手の指を揃え、反らせてみせた。女性誌のネイルやアクセサリー特集だけでなく、ウイスキーのボトルに指を添えたポスターに登場したこともある。
「ユミちゃんもネイルして、ちゃんとしたカメラマンに撮ってもらえばいいのに」
インスタのプロフィール欄には、ユミが劇団に所属する若手女優だと記されていた。だが写真は照明で顔が白飛びしたお粗末な自撮りだ。ユミはせわしなく画面の写真をスクロールしている。
「このトイプードルかわいい! 実家にいるんですか?」
「ちょっと訳ありでね、今はいないの」
ユミが気まずそうに先ほどの写真に画面を戻した。まずい。こちらのアカウントに載せてはいけない写真だった。光子があわてて犬の写真を削除していると、目の前に背の高い男が現れた。
「サキさん、五番テーブルのヘルプお願いします」
それじゃあとユミに声をかけ、光子は煌びやかなライトが灯るホールに足を踏み出した。そのとき、手の中でスマホが振動した。撮影依頼のメールだ。本文には著名なカメラマンの名前があった。光子はこぶしを握りしめた。
▼平岩定夫の事情
「特上唐揚げ定食お待ちのお客さん!」
「はいはい!」
平岩定夫は馴染みの定食屋で声を張り上げた。
「今日は随分と機嫌がいいね」
先に鯖の味噌煮定食を食べ始めていた先輩の木原が言った。
「昨日から随分とツイているんですよ」
握っていたスマホをテーブルに置くと、平岩は配膳口と書かれた看板に歩み寄り、香ばしい匂いが漂う定食のお盆を受け取った。
「特上は八五〇円もするよな、だいぶ太い客つかまえたんだな」
テーブル席に戻ると、味噌汁を啜った木原が軽口を叩いた。
「昨日のラスト、そして今日の朝一と連チャンで羽田空港だったんすよ」
平岩が答えると、対面に座る木原が顔をしかめた。
「いいなあ。俺なんかここんとこ、シケたショートの客ばっかりだよ」
平岩は揚げたての鶏の唐揚げを口に放り込んだ。めっぽう熱いが、歯を立てた途端に肉汁が口中に広がる。高田馬場にある定食屋の昼下がりは、同業者でにぎわっている。売り上げが悪いときは一番安いハムエッグ定食だが、今日は勝利の味にひたる。
「景気のいい奴にはかなわんよ」
木原が舌打ちした。
「そんなネガティブな態度ばっかりとっていると、運が逃げますよ」
木原に言うと、平岩は手元のスマホを手に取った。
「なんだ、ブログってやつでも書くのか」
「フェイスブックです。良いことがあったら必ず日記に書き留めています」
「俺はガラケーだからそんなもんに興味はないな」
「知り合いや友達に直接メッセージを送れますし、なにより、子供達とも“友達”としてつながっているんで、重宝しています」
子供達と告げた瞬間、木原が視線を外した。普段口の悪い先輩だが心根は優しい。
「この業界、みんな訳ありじゃないですか」
そう言うと、平岩は小さな画面に向き合った。フェイスブックのトップ画面には、二人の娘とディズニーシーで撮った写真がある。三年前のあの日に戻ることはできないが、この小さな画面は別だ。いつまでも時間が止まっている。
〈ありがたや。日頃の行いで羽田空港連チャン! 前向きに生きていれば、お金も運も巡ってくるもんだね〉
▼粟野大紀の事情
「いってらっしゃい!」
粟野大紀が声をかけると、小五を筆頭に四人の児童達が一斉にはい、と元気に応じた。
定年退職後の再雇用期間も終えた粟野は、悠々自適の生活を手に入れた。粟野は黄色い小旗を小脇に挟むと、遠ざかる子供達の後ろ姿に目を細めた。ウインドブレーカーからスマホを取り出すと、粟野は子供達の遠景をカメラにおさめた。
「いつもありがとうございます」
子供達の姿が見えなくなったとき、マンションのエントランスから女の声が響いた。
「隠居の身ですから。これくらいなんでもありません」
同じフロアに住むビジネススーツに身を包んだ母親に向け、粟野は言った。
「町内で変なことはさせないという意味を込めて、いつもツイッターに上げているんです」
撮ったばかりの子供達の後ろ姿を母親に見せ、粟野は言った。
「通学路を狙った不審者の情報とか、結構な頻度で注意メールがスマホに入りますからね」
革のバッグからスマホを取り出し、母親が言った。
「子供は地域の宝ですから、我々が全力で守らねばなりません」
「防犯意識の高い方がお住まいなので、安心して子供を送り出せます」
母親が頭を下げた。
「夕方も同志たちと通学路をパトロールしています。不審者が付け入る隙はありませんよ」
粟野は素早く指をスマホの上で動かし、撮った写真をツイッターに投稿した。
「私をフォローしていただければ、すぐにダイレクトメッセージを送りますよ」
母親は粟野の画面を覗き込んだ。
「ハンドルネームは〈東新宿頑固老人〉です」
「今、フォローさせていただきました」
母親が言うと、粟野はもう一度スマホを凝視した。ツイッターのメッセージ欄に新着サインがついている。
「〈ケンタママ〉ですな。防犯だけでなく、子供さんのことならなんでも相談してください。子供二人を育てあげた先輩ですから」
粟野が笑顔で言うと、母親がまた深く頭を下げた。
子供達に続き、粟野は懸命に働く母親の背中も見送った。自分の家庭と会社に貢献したあとは、地域に恩返しする。再びスマホを取り出した粟野は、ツイッターの新規投稿画面に指を走らせた。
〈世知辛い世の中でも、面と向かって話せば大概のことは解決するよ〉
▼長峰勝利の事情
「わからないことがあったら、なんでも俺に訊いてくれよな」
ごま塩頭の中年男が長峰勝利の右肩をなんども叩く。
「はあ、今のところは大丈夫です」
「大丈夫ってのは、間に合っているってことか?」
紺色の制服を着た上司は、少しだけ眉根を寄せた。
「まあ、そんなところです」
曖昧な笑みを返すと、中年の上司が顔を覗き込んできた。
「それで、歓迎会はいつがいい? 長峰はずっと用事があるって言っていたからな」
「ちょっと来週まで待ってもらえますか」
長峰は目の前の大型液晶画面を睨んだまま、答えた。
「わかった。他の連中も楽しみにしているからな」
上司がもう一度肩を叩き、自席に戻った。秘かにため息を吐くと、長峰はスマホを取り出した。
転職してから約半年経った。制服を着た上司や同年輩の同僚たちは腫れ物に触るような態度で接してくる。互いに距離感がつかめない。
以前の職場に比べれば、ノルマがない分だけ仕事は楽だ。しかし、歓迎会や昼飯会などと称し、無理やり他人の領域に足を踏み入れたがる輩が多いのには閉口する。
所詮、仕事は生活の糧を得るためのものであり、煩わしい人間関係を深めるものではないはずだ。
〈歓迎会って、俺も会費払うらしいよ。あり得なくね? 〉
〈この会社の飲み会は体育会系の権化らしいってさ〉
〈職場の飲み会って、何分くらい楽しいのかね? 嫌なことに時間を切り売りするなんて、バッカじゃない〉
デスクの下にスマホを隠し、長峰はツイッターの裏アカウントで毒を吐き続けた。
〈天パの独り言〉とした裏アカウントに、早速共感を示すハートマークがつく。
〈職場なんて、拘束時間一秒でも超えたら関係ないじゃん〉
自分の発信したメッセージに他人が同じ意見だと告げるリプライがついた。
「その通りなんだよな」
新たに着信したメッセージに、長峰はハートのマークをつけた。
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血の雫
沸騰する自意識と承認欲求――。SNSが怪物を生む。スマホが、人間を、社会を壊してしまうのか!? 『震える牛』『血の轍』の著者、最新作『血の雫』(幻冬舎文庫、10月7日刊)、怒濤の試し読み。