東京都内で連続殺人が発生。凶器は一致したものの、被害者たちに接点は全くなく、捜査は難航を極めた。過去のトラブルで心を壊したベテラン刑事・田伏とITオタクの新米・長峰がタッグを組んだ傑作警察ミステリー『血の雫』(相場英雄著、幻冬舎文庫)から、試し読みをお届けします。(前回 はこちら)
第一章 躓き
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「次、地取り班の報告を」
殺風景な会議室の一段高い席で、現場監督的な役割を果たす中野署の刑事課長が顔をしかめた。田伏恵介は最後列の席から、渋々立ち上がる中年男の背中を見つめた。
「一課と所轄の合同六チーム計一二名で鋭意ローラー作戦を展開しておりますが、有力な手がかりはありません。以上」
本部捜査一課・第四強行犯捜査の殺人犯捜査第七係のベテラン巡査部長が感情を押し殺し、報告した。静まり返った会議室に、マイクを通して刑事課長の溜息が響くと同時に、中野署の建物に面した青梅街道を走る大型トラックの排気音が不気味に反響した。
田伏は手元の手帳に目をやった。捜査本部の資料に、自分で加えた手書きの文字が毎日増えていく。だが、犯人につながるような記述は一つもない。
八日前の六月一〇日の深夜、中野坂上交差点近くの小路で、若い女性が刺殺された。被害者の名前は河田光子、二五歳。職業はフリーのモデルだ。背中など計五カ所を刺され、失血によりほぼ即死だった。第一発見者は近隣の新聞販売店に勤務する大学生アルバイトだ。
手元のページをめくると、笑顔の写真がある。河田が以前所属していたモデル事務所の宣材写真だ。瓜実顔で、奥二重。はにかんだような笑みを浮かべるストレートのロングヘアの美人で、真っ赤な唇が印象的だ。
もう一枚は全身写真で、白い麻のブラウス、黒いタイトなジーンズにハイヒール姿だ。プロフィールによれば、身長は一六二センチ、体重は四三キロ……。けばけばしい化粧の女が溢れるご時世で、被害者はどこか凜とした日本人形を思わせる。
現役モデルが刺殺されたことから、マスコミが騒いだ。一方で、捜査に進展はほとんどない。田伏は刑事課長の顔を凝視した。額に脂汗が光っている。
「現状、SSBCからもめぼしい報告はない。他になにかあるか?」
手帳から顔を上げると、田伏の前に並ぶ一課と所轄の計30名の捜査員が俯いていた。
捜査支援分析センターは警視庁刑事部が誇る最新の凶悪犯捕獲部隊だ。都内全域に設置された防犯カメラを公共、民間の別を問わず九割以上も把握し、日々そのデータを拡充させている。
今回のような殺人事件のほか、強盗や通り魔事件が発生した際は、ノートパソコンやタブレット端末を抱えた専門の捜査員一〇人以上が現場一帯に散り、防犯カメラに記録された動画を一斉に回収する。被疑者が犯行に至る前の足取り、いわゆる「前足」と、逃走する際の動向、「後足」を一気にトレースする手法で、検挙率向上に寄与している。
だが、今回は極端に防犯カメラが少ない中野の裏通りが犯行現場だった。幹線道路の青梅街道から暗い住宅街へ抜ける小路の手前で、白いブラウスに細身のジーンズを穿いていた被害者がほんの二秒間、表通りのドラッグストアの防犯カメラに捉えられていただけだ。その前後に通りかかった男性、女性は三〇人近く映っていたが、いずれも個人を特定するには至っていない。
会議室は沈痛な静寂に覆われた。SSBCにめぼしい成果がみられなかった以上、捜査は古くから踏襲されてきた二つの手法が生命線となる。
一つが地取りだ。現場付近の住居、商店をしらみ潰しに聞き込みし、事件発生時に不審者を目撃しなかったか、地道にネタを拾っていく。もう一つが、容疑者や被害者の人間関係を調べる鑑取りだ。
「鑑取り班の状況は?」
顔をしかめた刑事課長が訊くと、会議室の中ほどにいた白髪頭の本部の殺人犯捜査第七係の警部補が立ち上がった。
「被害者の高校、大学時代、そして現在のモデル業と、それぞれ関係者を手分けして洗っておりますが、皆、人に恨みを買うような人物ではないとの証言で一致しています」
田伏も事件発生直後から鑑取り班に組み込まれた。
中野署の若い巡査部長とコンビを組み、主に高校時代の人間関係を丹念に洗った。都下の立川にある河田が卒業した都立高校に行き、当時の担任やクラスメート、そして所属していたバスケットボール部の友人たちを訪ね歩いた。当たった人数は優に五〇人を超えた。
他の班員も同じように河田の人間関係や職場の様子、すなわち鑑を当たったが、〈美人なのに気さく〉〈気取らない〉〈思いやりのある人〉等々の答えを導くだけだった。
「犯行現場が悪すぎた。だが、最近はSSBCに依存しすぎていた嫌いがある。今一度、地取りと鑑取りの基本に立ち返り、早期の犯人検挙を」
刑事課長が低い声で告げた。これを合図に、会議室の面々が立ち上がった。だが、その動作は緩慢だ。
ここ数年、SSBCの活躍には目を見張るものがあった。防犯意識の高まりとともに町中に防犯カメラが溢れ、画像の解像度も年ごとに向上している。SSBCが集めた画像を本部鑑識課に持ち込み、解像度を上げることで、鮮明な画像で顔や衣服の判別が可能となったのだ。
地道な地取りや鑑取りを軽視し、ハイテク捜査にばかり頼ると、今回のように路地裏という場所で事件が起これば、犯人の割り出しどころか逃走経路の特定も困難を極めることになる。
事件発生から一〇日間を警視庁では第一期と呼ぶ。この期間内であれば、目撃者の記憶も比較的鮮明であり、地取り班が有力な手がかりを引っ張ってくる。鑑取りの分野でも、マスコミ報道を通じて被害者に関する意外な情報が捜査本部にもたらされる機会が少なくない。
だが、第一期はまもなく終わる。人々の記憶、事件そのものへの関心が急激に薄れていく。第二期、第三期と時が経つにつれ、捜査本部の士気は下がる。
捜査本部を覆う空気が一段と沈滞しかけたときだった。会議室のドアを力強くノックする音が響き、乱暴に扉が開いた。
「どんな具合だ?」
将棋の駒のような輪郭、いかり肩と分厚い胸板の男が声を上げた。
「上田一課長!」
帰り支度を始めていた刑事課長が姿勢を正した。同時に、弛緩しかけていた会議室の空気が一変する。田伏を始め、会議室にいた三〇人の視線が一斉に扉の方向に集まる。
「そんなに硬くなるなよ」
幹部捜査員がいる一段高い席に向け、上田敬浩捜査一課長がゆっくりと歩いていく。そのすぐ後ろには、運転手を務める本部の若手巡査長が続く。
三〇人の捜査員を見回したあと、上田が切り出した。
「成果がないと聞いている。現場がだいぶ不利な条件にあったことも、めぼしい鑑がないこともな」
青森の高校時代から柔道で鳴らしたという上田は、ドスの利いた声で告げた。
「申し訳ありません」
刑事課長が頭を下げると、上田が鷹揚に頷いた。
「最近の一課は汗をかく機会が少ないと本部のあちこちで槍玉にあがっている。メカに頼りすぎだ、との声も多い」
捜査一課は総員約四〇〇人の大所帯であり、凶悪犯を追う警視庁の顔とも言える花形だ。そこの課長だからこそ他の部署からやっかみを受け、批判の矢面に立つこともあるのだろうと田伏は思った。
「手がかりがない。目撃者がいない。そんなことで士気を下げていて、首都の治安を守れるか!」
上田が会議室の窓ガラスを震わすような声で怒鳴った。部屋の空気が完全に凍りついた。会議室にいる全員が姿勢を正し、気をつけの体勢となった。
上田の目は常に醒めている。奉職以来ずっと人を疑いながら警官を続けてきた結果だ。通りすがりの若者、コーヒーを配膳するウエイトレスに至るまでどのような性格でどんな生活スタイルなのかを分析する癖が染み付き、いつしか醒めた目線で人間と対峙する刑事眼になってしまったのだ。
「怒るのはここまでだ。各自、調べ残しがないか、再チェックをするように」
今、壇上の上田は先ほどの鬼のような形相とは打って変わり、口元を緩ませ、笑みを見せた。硬軟の顔を使い分け、我の強い捜査員たちを鼓舞する手腕は、田伏が知る限り上田がピカいちだ。
「田伏じゃないか」
会議室の後方にいると、上田と目が合った。軽く頭を下げると、田伏はゆっくりと上田に近づいた。田伏の真横で、上田が声を潜めた。
「ご苦労だったな」
「いえ、まだ成果出していませんから」
田伏が頭を下げると、上田が肩に手を回してきた。
「家族は達者か。それに随分白いモノが増えたな」
会議室の奥へと田伏を導きながら、上田が言った。
「相変わらずの母子家庭状態ですし、もう四六歳になりましたから」
「娘はいくつになった?」
「中二で思春期ど真ん中です。家内も娘の味方ですから、居場所がありませんよ」
田伏が答えると、上田が肩をすくめた。
「本部の一課にいたら、誰もが通る道だ」
上田を頂点に、一課にいる捜査員の大半が現在進行形の事件を追っている。家庭を顧みる余裕などなく、離婚する輩も多い。
「第四の居心地はどうだ?」
「色々と気を遣っていただいています」
「今回の事件が復帰第一戦だよな」
「まだ体が慣れていませんので、足手まといにならぬよう気を引き締めます」
偽らざる本音を告げると、上田が自分の胸を拳で叩いてみせた。
「こっちはどうだ?」
「ええ、なんとか」
上田が胸を叩いたのは、心の調子はどうだ、という意味だ。上田の優しい声を聞いたとたん、苦い胃液が口に逆流するような感覚におそわれた。久々に現場に投入されたことで、殺人犯捜査の感覚を取り戻しつつあると田伏は小声で答えた。
「それじゃ、頼んだぞ」
上田が踵を返し、会議室の出口に向かった。遠ざかる大きな背中を見ながら、田伏は考えた。上田の顔から笑みが消えぬうちに、結果を出す。
血の雫
沸騰する自意識と承認欲求――。SNSが怪物を生む。スマホが、人間を、社会を壊してしまうのか!? 『震える牛』『血の轍』の著者、最新作『血の雫』(幻冬舎文庫、10月7日刊)、怒濤の試し読み。