銀行の現金自動支払機の画面に「35万円」とでている。その横の「確認」という文字の上で人差し指がちゅうちょしている。
〈どうしよう〉亮子は機械の前でたたずんでいる。
亮子は恋愛して、結婚したいと願っている。最近はまったく男性との出会いがないので結婚相談所に入る決心をした。しかし、「結婚相談所の紹介で恋愛結婚はできるのだろうか?」という疑問がある。それに金額も高い。入会申し込み時に1万円を払い、手続きを終え、残金を入金する段になって迷っている。
〈一度海外旅行したと思えばいいか〉
彼女は画面を人さし指でギュッと押した。
正田亮子は35歳、10年近く経理事務の仕事をしている。
彼女は小柄で、二重瞼の眼差しがクリッとした可愛いい顔をしている。
20代の頃は、親戚や友だちが知り合いの男性を紹介してくれた。そのうちの何人かが彼女にプロポーズをした。しかし、亮子はことわった。どの男性も何かが欠けていたからだ。ハッキリこの人だと思える人がこの世の中にはいるはずだと彼女は信じていた。彼女の気持ちには余裕があった。
30、31、32と歳をとるにつれて、相手を紹介してくれる人が少なくなった。
34歳になった頃から、
〈もしからしたら、ずっとこのままひとり暮らしかもしれない〉という思いがよぎるようになった。
「大丈夫。絶対誰か現れる」と亮子はいう。「自分に暗示をかけてるんです。ひとり暮らしは仮の生活なんだって。たとえば、このCDラジカセですけど、もう古くなってうまく動かないときがあるんです。本当はもっといい音を出すオーディオセットがほしいんですけど、でも、買わないんです。男の人といっしょに住むとなると、男の人はだいたいオーディオ関係持ってるでしょう。その時二つもいらないと思って」
同じように独身の友だちの中には、ひとり暮らしが気楽なので恋愛をしても結婚はしたくないという人もいる。亮子は違う。恋愛し、結婚し、子どものいる家庭をつくり、その上で仕事もつづけたいと考えている。
亮子は結婚相談所に入会することに決めた。
私は彼女から結婚相談所に入会するときき、どんなふうに人と出会っていくのかを取材させてもらうことにした。
結婚相談所と契約した時に、顔写真を撮り、必要項目を記入して、自分の情報カードを作成する。
毎月、新しく入会した男性の情報カードが送られてくる。その中から、5名まで選ぶことができ、結婚相談所に申し込むと、相手の男性に亮子の情報カードが「交際申込書」となって届く。
それを見て、男性がつきあいたいと思えば、電話をくれるし、つきあいたくないと思えば、結婚相談所経由で「交際お断り」の通知がくる。
一方、亮子の情報カードを見て、男性の方からも交際を申し込んでくる。
最初、168通の「交際申込書」がドサッと送られてきた。A4版の紙で厚さ三センチメートルくらいある。
「交際申込書」には、男性の顔写真、生年月日や出身地、職業、年収、家族、趣味、身長、体重、自己PRの文章、望んでいるパートナー像についての文章などが載っている。168枚の紙を前にして、亮子はフーッとため息をついた。
「ともかく、取捨選択していかなければならないんです」と亮子はいう。「何が自分の中で価値が高いんだろうと思うとわかんなくなっちゃうんですよね。外見だけではないけれど、外見も大事。職業だけじゃないけれど、職業も大事。家庭環境だけじゃないけれど、それも大事だしね。ふと気がついたんです。私は条件で人を選んでいる。これって、恋愛して、結婚したいという私の希望とは違うんじゃないかって」
亮子が最初に会った人は、証券アナリストで、年収2,500万円、46歳だった。会うと同時に、「いままで結婚しなかった理由を聞かせてください」とか「結婚しても仕事は続けるのですか」とか「ご家族で大病を患った人はいますか」と質問ばかりする。
「そんなに次々に質問しないでください。刑事に取り調べを受けてるみたいです」と亮子はいった。
好きな食べ物や好きな音楽の話などはまったくない。 結婚相談所で出会う人との会話とはこんなものなのかと思った。
〈これでは恋愛なんかできない〉亮子はガッカリした。
次に会った人は、「交際申込書」の写真と全然違っていた。写真を撮った時から5kg太ったというし、身長も5cm高く嘘を書いたのだという。それに室内犬を飼っていて、話はそのことばかり。
〈結婚したいと思いながら、30代、40代まで結婚できないでいる人にはどこかいびつなところがあるのかもしれない。たぶん私もかなりいびつな性格なんだろうな〉と彼女は思った。
結婚相談所に登録している男性に希望がもてなくなったけれど、36万円も払ったんだからと思って3人目と会った。三田邦男、39歳、県の職員だ。
日曜日の夕方、東京駅で会った。近くに知っている店があるということだった。ビジネス街の日曜日に開いてる店なんかないと思ったが、行ってみるとやはり休みだった。歩きまわり、たまたま開いてた居酒屋に入る。初対面なのに邦男はお酒を飲む。ぐいぐい飲む。亮子もつられて飲んだ。邦男は結婚相談所に入会して一年目で、もうそろそろ決めたいと思っているのだという。一年前は専業主婦になってくれる人を望んでいたのだが、一年間いろんな女性と会っているうちに、多くの女性が仕事をやめたがらないことを知って、希望を変えたのだという。
邦男は気どらずに何でも正直に話す。
亮子は気分が楽だった。二枚目でも金持ちでもないが、邦男にはどこかホッとするところがあった。
邦男との2回目のデートは、上野の西洋美術館に『ピカソ展』を見に行った。2時間かけて絵を見た。邦男が絵をゆっくりと丁寧に見る人だとわかった。
美術館を出たのが午後の3時。お茶でも飲もうかということになった。
「それとも浅草まで歩いてビールにする?」亮子が聞くと、
「その方がいいね」と答え邦男はニコッと笑った。
その顔を見た時、〈子どものような笑顔だ〉と亮子は思った。
隅田川の言問橋のたもとのビヤホールでビールを飲み、その後バーに入ってカクテルを飲んだ。
「今月の『交際申込書』来た?」と彼がきく。
「ええ」
「どう?」
「ちょっと良さそうな人がいるので会ってみようかなって思ってる」
「えっ、会うの」
そういうと邦男は少し悲しそうな顔をした。
「あなたは一年間で、十分いろんな女性と会ってきたかもしれないけど、私は入ったばっかりだし、大金出したんだから、元とらないとね」亮子はいった。
邦男は「そうだね」とつぶやくとウィスキーを飲んだ。
帰宅して、風呂に入っている時に、亮子は気がついた。
〈あ、彼、嫉妬してたんだ〉
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