金曜日、会社が終わると、亮子は走るようにして家に帰ってきた。三田邦男が来ることになっているからだ。これまで4回デートをした。4回目には彼が亮子の部屋に泊まった。セックスをした。彼が女性に慣れていないと知った。そのことは亮子に良い印象を残した。
台所に立って、昨夜焼いておいた鯵の干物の身をとることから始めた。炊きあがっているご飯に酢を合わせる。鯵と梅干しとシソと白ゴマを混ぜて寿司を作るのだ。その他にはんぺんの納豆揚げ、ウドのぬた和え、きゅうりとワカメの酢の物、お吸い物。
午後7時には料理を全部作り終わる。彼の仕事は五時に終わるので、もうそろそろ来る頃だ。
三面鏡の前に座り、料理するときにまとめておいた髪をほどき、ブラシをかける。
「料理できるの?」と邦男が2回目のデートの時に聞いたことを思い出した。
時計の針は9時を回った。
〈どうしたのだろう?残業になったのかな?〉
亮子はテレビのスイッチを入れる。
ビートたけしが素人の絵についてあれこれいっているのをぼんやりと見ている。
午後10時。
亮子はまず、彼の自宅へ電話をした。留守番電話になっている。次に携帯電話の番号を押す。「おかけになった番号は電波が届かない場所にあるか電源が入っていません」
亮子はテーブルに新聞を広げるとぼんやりと眺めている。記事を読むが頭に入ってこない。
午後11時。
もう一度自宅と携帯電話に連絡する。応答なし。用意しておいた食器を片づける。歯を磨き、シャワーを浴びる。風呂場のドアは開けたままにしておく。インターフォンの音がしたらわかるようにだ。
零時。
亮子は彼の家の電話にメッセージを入れる。
「亮子です。どんなに遅くても結構です。お帰りになったら、私の家に電話をください」
1時。
邦男からの電話はない。
〈約束を守らない人はちょっとパスかな〉と亮子は思う。
翌日。午前10時に起きると、何もする気がせずに、コーヒーを飲んでぼーっとしている。
午後1時。
なんとなく習慣で、洗濯を始めていた。
3時、胸が苦しくて、床に寝て、体を左右にゴロゴロと動かしている。何も食べる気がしない。
夕方、お酒を飲んだ。梅酒のオンザロック。〈やけ酒だ〉と思った。
午後10時。
邦男から電話があった。
「どうしたの、昨日ずいぶん遅くまで起きてたんだね」と邦男の声。
「え、私約束してなかった?」
「なんの? 約束なんかしてなかったよ」
亮子は拍子抜けした。〈約束したはずだ〉と思ったが、ほっとした気持ちの方が強かった。
「会いたいんだけど、明日は?」亮子がきく。明日は日曜日だ。
「合気道の歓迎会があって遅くなっちゃうから」彼がいう。
亮子はすぐに会いたいという気持ちがつのってきた。
「夜でいいから会おうよ」彼女はいう。
「つかれちゃうから」
「いつでもいい、月曜日でも、火曜日でも、とにかく、早く会いたいのよ」
「じゃ、月曜日に」
「何時頃来られる?」
「六時半か七時には行ける」
「わかった」
「泣いてるの?」彼がきく。
いわれて、自分が泣いていることに気づいた。涙が鼻の下から受話器に落ちている。
「ちょっとお酒飲んだから」亮子が小さな声でいう。
「そんなに思ってくれてたなんて、愛が芽生えそうだよ」邦男がボソボソという。
〈これは恋愛になるかもしれない〉亮子は思った。
それから2ヶ月がたった。亮子から私に電話があった。
「どうしてるかと心配してるんじゃないかと思って」と亮子は沈んだ声でいう。
「ええ、どうなりましたか?」私がきく。
「ふられちゃいました」そういうと彼女はふっと小さなため息をついた。
彼女は邦男と結婚しようと決めた。それから二度デートし、その後彼からぷっつり連絡がこなくなった。家に留守番電話を入れ、ファクスを入れても返事がない。とうとう職場に電話をしてつかまえた。彼は亮子を避けていたのだ。問いつめると、亮子より若い女性とつきあっているのだという。
「電話を切ったら涙が止まらなくて」と彼女はいう。
「約束破ったときから、変なヤツだと思ってたけどね……」私は邦男をけなして彼女をなぐさめる。
亮子はすこし気をとりなおすとこういった。
「いまは体に穴があいたみたいでつらいけど、フフフ、このつらさって失恋ですよね。結婚相談所でも、恋愛できるってわかりました」
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