新型コロナウイルス感染症が5類に移行して、“日常”を取り戻したと感じている方も多いのではないでしょうか。「この3年間、なんだったんだろう」と思いつつ。
藤井清美さんの書き下ろし小説『わたしにも、スターが殺せる』は、時代の気分を大きく左右したコロナ禍の大衆心理を生々しく炙り出すサスペンスです。
主人公は【M】という署名で書く、こたつライター・真生。「熟年夫婦のようだ」と思っていた年上の恋人・春希との関係は、少しずつ【M】の記事に影響されていた。真生と【M】。同一人物でありながら、【M】の認知度が高まるにつれ、【M】が真生の人生を侵食し始める。
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4 #笑美ちゃんの秘密
特別なルートを利用して翔馬のアクシデントの裏側を記事にした真生。『いいね』が急増して喜んでいると、あるファンが、翔馬のケガの原因を【M】の記事のせいだと言い始める。そして、身元を隠している【M】の正体に迫る情報が、SNSにあがった……!
翔馬を心配するファンのツイートをいくつか引用して記事を完成させ、すぐに工藤さんに送る。
大きく息を吐き出してテーブルの向こうに目をやると、春希が心配そうにこっちを見ていた。
「ごめん、なんかほったらかしで」
「いいよ。で、荷物はあれね」
段ボールが目に入った。そう言えば、記事を書いている間にインターホンが鳴って、春希に「出て」と言った気がする。届いたのは、またお母さんからの荷物だった。
「開けようか?」
「そうだね、そんなにいい物は入ってないと思うけど」
言いながら、Twitterで記事の告知をする。『いいね』がすごい勢いで増えていく。
「ね、手紙入ってるよ」
春希が言った。いつものやつだ。「本棚の隅に押し込んどいて」と頼む。「読まないの?」と春希が聞いてくるが、Twitterにリプが来始めた。それどころじゃない。
《M記者さん、ありがとうございます。翔馬の無事がわかって嬉しい》
《本人もインスタで、「集中力が切れただけ、心配しないで」って書いてたけど、強がってるのかもなって思ってました。でも、Mさんが言うならほんとですね》
なんとなく顔がにやけてくる。唐突に春希が、「俺、そろそろ帰んないと」 と言った。 春希を送り出すとき、「お正月、地元帰ったらお土産買ってきてね」と甘えてみた。しばらく仕事にかまけたけど、春希との会話は忘れてないよって証拠に。 春希が出て行ったあと、赤ワインを開けて、リプライの続きを読む。
《M記者さん、いえ、M様! 感謝してもしきれません!》
《やっぱりMさんの記事は、他の人が書くのとは全然違いますね。特に、久々美とかいう人とは大違い。愛がある。感動します》
たくさんの人が、構ってほしい子どもみたいに送ってくる賞賛と感謝をつまみに飲む赤ワインは、悪くない。
《Mさん、翔馬君の集中力が切れたというのが気になっています。翔馬君は憑依型で、集中が途切れるのなんて見たことありません。今回こんなことになったのは、Mさんが昨日、翔馬君の近くに謎の女性がいるみたいにほのめかしたせいじゃないでしょうか。一部のファンの子は、千穐楽にもその女性が現れるんじゃないかって気にしていました。それが翔馬君に伝わって、集中を奪ったんじゃないって言い切れますか?》
口に含んだ赤ワインを飲み込めなくなった。重い、もったりとした液体が口の中に居座っている。そもそも、赤ワインなんか好きじゃない。ビールを買いに入ったお店で、勢いで買ってしまっただけで。
翔馬のケガと【M】を結びつけてきたアカウントは、《P子》。翔馬の古参のファンらしい。気になるのは、以前《Mさん、あんまり調子に乗らない方がいいですよ》と言って寄越して【M】への批判を先導した《翔馬は命》がいち早く『いいね』していることだ。
二人は知り合い? 組んでる?
ワインをシンクに吐き出して口をゆすぎ、気分を変えようと、他のリプライを読む。と、見慣れた景色を写した写真が目に飛び込んできた。うちのマンションの外観だ。マンション名が書かれた柱はギリギリ写ってないけど、スイーツ好きなら気づく。「あ、あの神楽坂の有名なガレット店の近くだ」って。
文章は書かれていない。まるで、間違って送られたような写真。
でも、間違いじゃない。きっと。