2006年から刊行され、今も版を重ね続ける漫画版『神聖喜劇』(大西巨人、のぞゑのぶひさ、岩田和博、全六巻)。“漫画化絶対不可能”と言われてきた原作の、“迷宮”的な部分とは何か。そこから物語の醍醐味をみごと浮き彫りにした漫画版の魅力とは。plusの連載でもおなじみ、漫画研究者の中条省平さん(学習院大学教授)の解説を、第一巻から転載してお届けします。[漫画版第一巻の全公開も本日スタート!!]
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解題 三つの迷宮
大西巨人の小説『神聖喜劇』は、日本の戦後文学を代表する傑作のひとつです。
それも、大岡昇平の『野火』や、三島由紀夫の『金閣寺』や、安部公房の『砂の女』といった文学史上の地位の安定した名作とはちがって、ふつうの小説の基準を土足で踏みにじるような、どこか空恐ろしいものを感じさせる傑作なのです。
内容は、ひとりの兵隊のわずか三か月の軍隊生活を描くものですが、執筆開始から完成までになんと二十五年間もかかり、その長さたるや、四百字詰め原稿用紙にして四千七百枚! 作品のコンセプトの徹底性と、文学的意志の異様な持続と、小説そのものの長さにおいて、『神聖喜劇』は一個の文学的怪物だというほかありません。
日本の戦後文学でいうならば、これに匹敵しうる怪物性をそなえた小説としては、かろうじて埴谷雄高の『死霊』と沼正三の『家畜人ヤプー』を挙げることができるだけでしょう。
けれども、『神聖喜劇』を通読することは簡単なわざではありません。たんに長いからというのではありません。ものすごく長い小説を読むだけならば、吉川英治や司馬遼太郎の例を考れば分かるとおり、べつに難しいことではありません。しかし、『神聖喜劇』 は、ある意味でプルーストの『失われた時を求めて』を思わせる〈迷宮〉のような作品なのです。しかも、この迷宮は、プルーストよりもさらに複雑にいり組んだ構造をもっています。
『神聖喜劇』の舞台は、一九四二年初めに設定されています。つまり、日本が太平洋戦争に突入したほぼ一か月後のことです。
主人公は二十四歳の東堂太郎。陸軍二等兵の東堂は、長崎県対馬要塞の重砲兵聯隊に新兵として配属されます。寒さの厳しい閉ざされた兵舎のなかで、東堂は日本の軍隊の理不尽さと日々直面し、意志と能力のかぎりを尽くしてこれと戦っていきます。その意味で、『神聖喜劇』は人間の意志と力の限界が試される正統的な冒険小説の系譜を継いでいるといえるでしょう。
しかし、東堂が戦う相手は単純な悪人ではありません。生活のあらゆる水準において、隅々まで理不尽な法が支配する軍隊という巨大な〈迷宮〉が相手なのです。そして、この軍隊の法は、ズボンのなかで金玉は左側に入れろ、などということまで具体的に定めているのです。その意味で、『神聖喜劇』は、法のばかばかしいまでの理不尽さを描きだし、主人公がその法に翻弄されるカフカの小説との共通点をもっています(カフカと大西巨人ののちには、ジョーゼフ・ヘラーの『キャッチ=22』という小説が、軍隊における法規のばかばかしさ、すなわち法の不条理を主題にした面白い作品になっています)。
というわけで、軍隊という迷宮と戦う東堂の冒険は、法の解釈をめぐる抽象的な論理の戦いにならざるを得ません。この点が、もっぱら行動で危機を打開する大方の冒険小説とは違うところなのです。
もうひとつ、『神聖喜劇』は言葉の迷宮でもあります。
主人公の東堂は異常な記憶力の持ち主で、一度読んだ法文をほとんど丸暗記してしまいます。そのおかげで、軍隊の法を楯にとって理不尽な命令を下す上官にたいして、正確な法規の文章を逆手にとって戦うことができるのですが、この異常な記憶力は、東堂が読んだほかのあらゆる文章(小説、詩歌、思想書、政治的パンフレット等々)にも発揮されるのです。
そのため、東堂はどんなささいなきっかけによっても様々な文章を思いだし、それを縦横無尽に引用します。『神聖喜劇』は、まさに「引用の織物」という名にふさわしい巨大な言葉の迷宮なのです。
『神聖喜劇』(光文社文庫版、第二巻)の解説で、小説家の阿部和重氏はこの小説の特色として、物語というひとつの声にたいして複数の他者の声がつねに重複して響くことを指摘しています。これはバフチンが小説の本質として挙げている「ポリフォニー(多声的構造)」という定義と一意するものだと思いますが、まさに『神聖喜劇』では、主人公の説明 (ひとつの声)による物語のまっすぐな進展を犠牲にして、彼が記憶して引用する言葉、言葉、言葉の迷宮、そして、彼の記憶の迷宮へと滑りこんでいきます。
そうなのです。『神聖喜劇』は、軍隊という法の迷宮、引用という言葉の迷宮であるとともに、東堂の頭脳という記憶の迷宮でもあります。
先にも述べたように、この小説はほぼ三か月の出来事を描くものですが、東堂は周囲の事件に触発されて自分の生涯のいろいろな事件を思いだし、その過去の記憶をやはり縦横に現在の物語に挿入していくのです。ですから、ここでも『神聖喜劇』は、通常の物語の流れを中断して、異様に長く、くわしく、鮮烈なフラッシュバックを繰りかえす記憶の迷宮の観を呈することになります。
以上のように、『神聖喜劇』は三重の意味で〈迷宮〉的な特徴をもっていて、それが直線的に進行する通常の小説に慣れた読者を大いにとまどわせるはずです。 この文章のはじめに、「『神聖喜劇』を通読することは簡単なわざではありません」とお断りしたのは、そういう意味なのです。
しかし、『神聖喜劇』は、面白い物語内容を否定するアンチロマン(反小説)ではありません。それどころか、意外性にみちたミステリーであり(東堂の軍隊仲間・冬木が嫌疑をかけられた剣鞘すり替え事件の真犯人は誰か?)、また、軍隊という組織に反抗する東堂の冒険小説であり、世間知らずのニヒリスト青年・東堂が人間としてひとまわり大きく成長するビルドゥングスロマン(教育小説)であり、東堂と年上の未亡人とのあいだに展開するエロティックで哀切きわまりない恋愛小説であり、軍隊という非人間的な環境のなかにあって大らかであけすけな笑いに救いを求めるユーモア小説であり、戦争という極限の場で人間の生と死の意味を問う思想小説であり……、 そうした側面をすべてひっくるめて、バルザックのいう「人間喜劇」なのです。
そもそも、タイトルの「神聖喜劇」とは「ディヴィナ・コンメディア(Divina Commedia)」 の直訳であり、「ディヴィナ・コンメディア」とはダンテの『神曲』の原題なのです。ダンテは、神聖なる(神が作りあげた)ドラマを地獄・煉獄・天国を舞台にして描きあげましたが、これに対抗して、バルザックは自分の書いた小説全体を、人間が織りなすドラマ、すなわち「人間喜劇」と名づけたのです。
このたび、のぞゑのぶひさ氏がマンガ化した『神聖喜劇』は、この小説の「人間喜劇」的側面に焦点を当てて、その物語の醍醐味をみごとに浮き彫りにすることに成功しています。
一般の読者のなかには、原作の迷宮的な怪物性に目がくらんで、このスリリングな物語の面白さを味わうところまで行けない人がいるかもしれません(かくいう私もかつてこの小説の通読に何度か挫折したことを告白しておきます)。しかし、のぞゑ氏のマンガ版の力のこもった面白さは格別の出来ばえで、このマンガ版で『神聖喜劇』の真の面白さに目ざめ、逆に原作を通読することができた! という読者が今後増えるだろうと私は確信しているのです。
のぞゑ氏のマンガの感触は一見素朴です。グラフィックな技巧を誇示するようなマンガとは対極にある画風といってもいいでしょう。 しかし、その素朴な印象が、画面の隅々まで丁寧にペンを走らせ、けっして手抜きをしたり安易なごまかしをしない、厳しい職人のような手仕事の倫理に支えられていることを見逃してはなりません。その丹念な仕事によって、軍隊という空間と、そこを生きる人間たちの素朴さと複雑さのいり混じった陰翳の豊かさが、画面の質感として定着されているのです。
作画のリアリズムをこれ以上徹底させれば、花輪和一の『刑務所の中』のような幻想の領域に入りこんでしまったかもしれません(そういえば、『刑務所の中』も監獄という法の迷宮を題材にしていました)。しかし、のぞゑ氏の筆はその一歩手前でとどまり、あくまでも現実の粗く厳しい感触を捨てることがありません。
そうしたリアルなマンガ空間のなかで、自分をニヒリストだと規定するインテリの主人公・東堂は、個性を欠いた、透明な、視点と意識だけの超人的存在に見えてくるのです が、一方、小ずるかったり、おろかだったり、尊大だったり、卑屈だったりする東堂の軍隊仲間や上官たちがなんとも人間的に迫ってきます。 彼らの顔から発散するリアリティには、水木しげるの描くしたたかな庶民たちの、単純でありながら味わい深い顔との共通性が感じられるようにも思えます。
とくにすばらしいのは、原作でもひときわ異彩を放つ大前田文七のキャラクターです。
むろん、大前田は、インテリ・東堂とことごとに対立する敵役であり、軍隊の理不尽さや日本の庶民の残酷ないやらしさを凝縮するようなキャラクターです。戦場での強姦や殺人や残虐行為を自慢する許しがたい人間像です。
その大前田が長広舌をふるう本作第二巻後半が、『神聖喜劇』の最初のクライマックスです。その迫力ある戦争論はじっさいに本書で味読していただくとして、この場面がすごいのは、戦争の生んだ最も凶悪なキャラクターである大前田の駆使する論理が、じつは凶悪でもなんでもなく、むしろ戦争の論理を極限まで純粋化したものであることが明らかになっていくところです。
大前田の論理とは、「戦争は殺して分捕ることだ」という一語に尽きます。結局のところ、戦争に狩りだされた庶民にとって、また、じっさいに戦場で戦う兵隊にとって、戦争とは、国家の大義や政治の駆け引きとは無縁の、「殺して分捕る」ことにほかなりません。どう美名をもって言い繕おうとも、戦争は殺しあいであり、領土と資源の分捕りあいなのです。
それゆえ、大前田の戦争論は、「『勝ちゃ官軍、負けりゃ賊軍。』の戦争に、殺し方・分捕り方のええも悪いも上品も下品もあるもんか。 そげな高等なことを言うとなら、あられもない戦争なんちゅう大事を初手から仕出かさにゃええ。 いまごろそげな高等なことは、大将にも元帥にも誰にも言わせやせんぞ」という、逆説的な戦争指導者への呪詛となり、しまいには、広島や長崎への原爆投下を連想させる黙示録的な予言へと変貌していくのです。
もちろん、この大前田のセリフの見事さは原作によるものですが、 のぞゑ氏のマンガ は、一ページ大の大きなコマを駆使しつつ、戦争の残虐さを描くイメージショットや、大前田の表情の陰翳を点描しながら、その抽象的な論理に絶妙の肉づけをおこなっていきます。
仮にこれと同じことを映画でやったとすれば、月並みな戦争の残酷行為のインサートショットによる絵解きや、役者の表情や仕草のオーバーアクションになって、目も当てられないことになるでしょう。しかし、マンガは同じイメージ芸術ではあっても、映画と違って細い線だけで描かれる抽象度の高いメディアです。それゆえ、のぞゑ氏のリアリズムも月並みな残虐さのイメージの罠にはまりこむことなく、また、大前田のセリフと絵柄とのあいだに視覚上の絶妙のバランスを保たせながら、この長ゼリフの緊張感を盛りあげています。
大前田のセリフの前には、被差別部落民である橋本が隠坊として死体を焼いていたことを明かす衝撃の告白があり、後には、模範的なエリート士官・村上による皇国の大義による戦争の正当化の弁論が続きます。
そのように、この部分は、様々な声が重層的に交差するポリフォニーとしての小説『神聖喜劇』が最もドラマティックに高揚する場面でもあるのですが、のぞゑ氏によるマンガ版『神聖喜劇』は、その声の重層性をできるだけ風通しのよい分かりやすいものに変え、対決のドラマの白熱ぶりをいっそう高めています。
こうした作劇的な配慮により、マンガ『神聖喜劇』は、原作のディスカッションドラマとしての堅牢な構造をいっそう明確に浮き彫りにすることにもなっています。原作の愛読者にとっても、マンガ『神聖喜劇』は、この小説の新たな魅力を発見する最良のガイドになると私は信じています。
【漫画】神聖喜劇
あの“日本文学の金字塔”を完全漫画化!! (全六巻)
【第一巻】対米英開戦から間のない1942(昭和17)年1月。東堂太郎をはじめとする補充兵役入隊兵百余名は、教育召集により、玄界灘に浮かぶ島——対馬の要塞重砲兵聯隊へと配属される。三ヵ月の教育期間が終了した時、彼らを待つものは満期除隊か、それとも引きつづいての臨時召集か。あれこれの僅かな予兆を探りながら一喜一憂する同年兵をよそに、暗い時代に追い詰められて虚無主義を抱く若者・東堂は、「私は、この戦争に死すべきである」「一匹の犬となる」と思い定めていた。
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