現役の大学病院教授が書いた、教授選奮闘物語『白い巨塔が真っ黒だった件』。どこまでが実話なの⁉…リアルな描写に、ドキっとします。
発売を記念して、第1章「暗闇の中で」を5回に分けて公開します。
* * *
研究室に行けなくなり、ぼくは埃っぽい布団の中から起き上がることができずにいた。乳飲み子を抱えた妻が見るに見かね、嫌がるぼくを無理やり心療内科へと連れていったのは、それから一週間後のことである。
「中等度の鬱ですね」
医師は隣に座った妻の方に膝を向け、静かに病名を告げた。それから今度はぼくの方に体を向け、「大塚さん、少し休みましょう」と言い、カルテの方に再び体を戻した。
「まずは向精神薬のパキシルから内服してください。効果が出るまでに時間がかかります。毎日しっかり内服してください。一カ月経っても効果が出なければ増量します。それと、夜は眠れていますか?」
「いえ」
ぼくは言葉を絞り出した。
「では眠剤も出しておきますね」
「ありがとうございます」今度は妻が代わりに答えた。
「希死念慮があります」
妻の言葉に重ねるように、ぼくは自ら申告した。希死念慮とは、死にたい気持ちを指す医学用語だ。苦しくて苦しくて、こんなに苦しいのなら死にたい。その気持ちを目の前の医者に伝えるということは、本当に死にたいわけではなく、なんとかこの苦しさを取り除いてほしいということだ。
医師は「分かりました。苦しくなったときに飲む抗不安薬も出しておきます」と言ったものの、希死念慮という言葉が耳に残ったのか、「入院されますか?」と前言とは矛盾したことを聞いてくる。
「いえ、まずは薬を飲んで家で様子を見ます」
「ほんとに家で大丈夫?」
心配そうな様子で妻が口を挟む。その頃のぼくは実際、目を覚ますと布団の中でゴソゴソと携帯を取り出し、「苦しくない自殺方法」を検索してはまた目を閉じるということを繰り返していた。
「大丈夫」
死にたい気持ちも強かったが、それ以上に日々湧き上がる苦痛に耐えられなかった。
研究で大発見をする夢に破れたという挫折感、自分のキャリアが終わってしまったという絶望感、もうこれまでと同じように働くことができないという虚無感。
自殺サイトを覗くついでにふとメールアプリを開いてしまうことがある。そうすると否でも仕事のメールが目に入る。さすがに前野からの連絡はなかったが、学会参加のお知らせやバイト先の病院からのメールを開くたびに、なぜか前野に罵倒され続けた魔の五時半の記憶が蘇り、胸が締めつけられる思いがした。前野がぼくに残した傷は、研究だけでなく仕事全般を拒絶してしまうような深いものだったのだ。 そんなことに気づいていたのか、妻はぼくが携帯電話を開くのを嫌がり、布団の中で液晶を覗き込むたびに「やめなよ」と声をかけてきた。しかし、心療内科の受診が済んだこの日、祖母に預けていた子供を妻が引き取りに行く間、ぼくはついついメールを開いてしまった。
そこには「大丈夫ですか?」という表題が付いた、教授秘書の森田から届いたメールがあった。
森田は、ぼくら大学院生の仲間であり、アイドルであった。前野教室で秘書をする傍ら、読者モデルをしているという噂もある。
「前野先生からセクハラを受けてる」
彼女がそう漏らしたのは、山本の机に墓石が立った直後のことだった。
ぼくともう一人の大学院生、小出崇史で森田を誘い、居酒屋に飲みに行った。
「前野先生からしつこくご飯に誘われて、いよいよ断れなくなって二人で食事に行ったの」
ぼくと小出は興味津々で、森田の話の続きを待った。
「いざ帰ろうと店を出た後、少し歩きたいと前野先生がおっしゃって、私たちは哲学の道を歩くことになったの」
「うわー、きつい」
思わず小出が声をあげた。
「しばらく経つと前野先生の手が伸びてきて、私の手を掴んだからびっくりして」
「まじか」
今度はぼくが声をあげた。
「手を引っ込めようとしたんだけど、前野先生の力が強くて手をつなぐはめになったの。でもそれで終わりじゃなくて、今度は無理やり恋人つなぎにしようと指をグリグリしてきたのね」
森田はそう言って、ぼくらの目の前で両手の指と指を交互に重ねてガッチリと組んでみせた。
「大通りに出る直前に手をぐっと引っ張られて抱きしめられそうになったんだけど、そこは力いっぱい抵抗して、走ってタクシーに乗り込んで帰ってきた」 森田は神妙な面持ちで話を終えた。
それからぼくらはビールとハイボールをそれぞれ頼み、だし巻き卵と唐揚げと他にも沢山の料理を平らげ、大学院生をパワハラで潰した上に、秘書にセクハラするなんてひでぇ野郎だ、とかなんとか言って会を終えたのであった。
あの頃はまだ自分は安全だと勝手に思い込んでいたし、呑気なものだった。しかし、今のぼくは、外へ出るのさえ億劫なほど心身を壊していた。
森田から届いたメールには、ぼくの体調を気遣う文面が続いた後で、今度は小出くんが危ないと書かれていた。
しかし、同じ研究室でのパワハラも三度目となると、小出も負けてはいない。魔の五時半が始まるとポケットにテープレコーダーを忍ばせ、前野の暴言を一つ残らず録音するようになったらしい。しまいには学内に設置されたハラスメント委員会に訴えると言いだし、森田やぼくにもぜひ一緒に被害を報告してほしいとのことだった。
小出の反撃を頼もしく思うものの、ぼくはまだ薬を飲み始めたばかりで、前野と戦う気力はないと答えた。ハラスメント委員会に出す書類に名前が加われば、前野から受けた暴言を思い出さざるを得なくなるだろう。そのたびにぼくのメンタルは崩壊する。今はただ、小出と森田の反撃を、湿った布団の中から祈るように見守るしかなかった。 ──さて、みなさんはこの結末がどうなったかすぐに知りたいことだろう。前野教授は適切に罰せられ、職を失い、ぼくは安心して大学院に復帰することができた、と言いたいところだが、これはまだ世間がハラスメントに厳しくなかった時代の話だ。
実際は、半分正解で半分不正解である。
二年後のある日、小出から聞いた話の顛末は意外なものだった。
(つづく)
白い巨塔が真っ黒だった件
実績よりも派閥が重要? SNSをやる医師は嫌われる?
教授選に参戦して初めて知った、大学病院のカオスな裏側。
悪意の炎の中で確かに感じる、顔の見えない古参の教授陣の思惑。
最先端であるべき場所で繰り返される、時代遅れの計謀、嫉妬、脚の引っ張り合い……。
「医局というチームで大きな仕事がしたい。そして患者さんに希望を」――その一心で、教授になろうと決めた皮膚科医が、“白い巨塔”の悪意に翻弄されながらも、純粋な医療への情熱を捨てず、教授選に立ち向かう!
ーー現役大学病院教授が、医局の裏側を赤裸々に書いた、“ほぼほぼ実話!? ”の教授選奮闘物語。
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