かつては水産物の争奪戦で中国に敗れ問題になった「買い負け」。しかしいまや、半導体、LNG(液化天然ガス)、牛肉、人材といったあらゆる分野で日本の買い負けが顕著です。7月26日発売の幻冬舎新書『買い負ける日本』は、調達のスペシャリスト、坂口孝則さんが目撃した絶望的なモノ不足の現場と買い負けに至る構造的原因を分析。本書の一部を抜粋してお届けします。
「設計しない」TSMCの圧倒的強さ
半導体受託製造企業のTSMCは、ファウンドリーとして、世界の半導体の60%弱を生産する。異常なほどのシェアといっていい。このTSMCのような会社を生み出せなかったことが、半導体以外の日本の買い負けにもつながるように思えるので紹介したい。
TSMCは1987年に設立。1986年には米国と日本の貿易摩擦が本格化した末に日米半導体協定が締結された。これは不平等協定と呼ばれ、日本市場で外国の半導体シェアを拡大することになった。当然ながら米国半導体のシェアも上昇する道筋ができた。
ただし、米国は半導体のシェアは上げたいものの、自ら生産したいわけではなかった。半導体製造の上流である設計や知的財産は押さえたいものの、製造拠点は別にしたかった。アジアは安価な労働力が豊富だったし、アジアに製造を委託したい企業はたくさんあった。ただし地政学的に、西側陣営ではない国に全面依存するのは危険だ。そこで受け皿になったのが台湾でありTSMCだった。
そもそもTSMCの設立者であるモリス・チャン氏自身が、半導体が背負う複雑な世界状況を体現している。中国本土で生まれ戦時下をなんとか生き抜き、渡米しハーバード大学に学んだ。そして米国半導体企業テキサス・インスツルメンツで働き、米国の半導体産業を底上げした。その後に台湾から特別に招聘される形でTSMCを設立した。
現在、地政学的なホットスポットである中国、米国、台湾に移り住んだ。国際社会を生きる術として半導体に賭けた台湾政府だったが、米国の有名企業や台湾政府からの協力を取り付けたモリス・チャン氏はさらに大きな賭けに出た。半導体において、設計を切り離し、ファウンドリー事業に特化したのだ。
これには大きな意味があった。たとえば、A社に半導体製造を委託するとする。そのA社に自分たちが設計した半導体のノウハウを盗まれるかもしれない、そしてA社は独自ブランドで半導体を販売し始めるかもしれない──、と考えるのは当然だろう。
しかし、TSMCは「安心してください。私たちはファウンドリーであり、設計はしません。あくまで製造です」と宣言したのだ。これによりTSMCを活用するリスクはなくなった。
サムスンはファウンドリー事業を行っている。ただし、サムスンはスマートフォンをはじめとするさまざまな商品を自ら販売している。だからファウンドリー事業では、多くの注文者と実質的には競合状態にあった。その競合への懸念を払拭できたのがTSMCの強みだ。
さらに台湾政府の援助も後押しした。台湾の半導体産業は、減価償却年数短縮などの税務的支援、高度人材が各社を流動する文化、同じく高度人材の誘致と教育などが功を奏したといわれる。おそらく一つの理由ではなく、偶然と偶然が重なり現代の奇跡を生んだのだろう。
TSMCは台湾官民の結晶であり、初期のTSMC幹部は多くが米国半導体企業での勤務経験があるメンバーだった。ゆえに米国企業の顧客を呼び込むのは自然だった。
台湾はもはや半導体で世界的に最重要な場所だ。私は国際政治が専門でないが、台湾にTSMCなどの半導体企業がなければ、中国による台湾侵攻の可能性についてこれほど国際的に関心をもたれなかったに違いない。
TSMCとしても大量の注文を呼び込むことで、スケールメリットが生じた。徹底的に生産効率を上げ、他社ができないレベルの微細化を実現できるようになった。
進化のためにTSMCは毎年、数兆円の投資を継続する。TSMCと取引をした複数の企業にしてみれば「他社がやってくれないような難しい仕事を引き受けてくれ、さらに具現化してくれる」稀有なファウンドリーであるのは間違いない。それだけ莫大な金が投じられ、さらに優秀な人材が惹きつけられているのだ。
このようにしてTSMCは顧客に製造拠点を持たない経営を実現化させ、そして製造を依存させていった。時計の針が戻ったら──と私は思う。80年代後半に、日本でTSMCのような企業を設立可能だったのだろうか、と。
買い負ける日本
2023年7月26日発売『買い負ける日本』について