自宅マンションに殺人犯が住んでいる? 死体はない、証拠もない、だけど不安が拭えない――。
平凡な日常に生じた一点の染みが、じわじわと広がって心をかき乱す、ミステリー長編『隣人を疑うなかれ』の試し読みをお届けします。
* * *
「ところで、それ、そのピアス。さっきから気になってたんだけど」
餃子? と尋ねられ、私は耳元に手をやる。
小指の先ほどの大きさのプラスチックの焼き餃子が揺れるピアスは、私のお気に入りだ。ジョッキに入ったビールの形のピアスも持っていて、餃子とビールを片耳ずつつけることもある。
晶は、チョコミントわらび餅を受け取ったときと同じ表情をしていた。
「あ、はい。食品サンプルのお店で買ったんです。こういうの好きで」
「何か漫画家っぽいな」
「そうですか? 割と一般的というか、好きな人、多そうなイメージなんですけど……」
「いや、私も好きだけどさ餃子は。食うのが」
呆れた様子だが、馬鹿にしている風ではなく、むしろ、なんとなく親しみを感じる口調だ。
私たちの間の空気が悪くないと察したらしい小崎が、すかさず言った。
「それでさ、姉貴、実はもう一個お願い、っていうか相談があって」
「あ?」
「あ、そうなんです。あのですね、私、一か月ほど前……」
事情を話すと、晶は最後まで聞いて、なるほどカメラか、と頷いた。
「どうせそっちがメインだろ。そういうことは早く言えよ」
「あはは……もーちょっと打ち解けてからと思って。土屋さんがマンションの中、見たいって言ってたのは本当だし。そっちはついでだったわけだけど」
姉弟の気安さからか、小崎は悪びれる風もなく言って、ダイニングテーブルに身を乗り出すようにする。
「でさ、加納さんて今、このマンションに住んでんだよね。土屋さん、確かなことが言えないうちに警察に届けるのはちょっと、って言ってて……加納さんに話聞いてもらえないかな」
加納さん? と私が小崎を見ると、彼は「姉貴の友達。警察官」と簡潔に説明した。
「あー、取り次ぐのはいいけど、あいつ今忙しそうだからな。春のOL殺人事件の犯人、まだつかまってねえだろ。帰ってくんのは大抵深夜だって言ってたし」
小崎が記事を書くと言っていた、千葉市在住のOLが刺殺された事件だ。その担当をしているということは、加納という晶の友人は刑事なのだろう。いざとなればその人に情報提供できるとしたら、一一〇番するより大分気楽だ。とはいえ、知り合いの知り合いだからといって、刑事を不確かな情報で振り回すわけにはいかない、ということは変わらない。そんなに忙しい人なら、なおさらだ。
私の思いを察したのか、
「どっちにしても、まずは防犯カメラか。正面入り口じゃなくて、駐車場のほうのカメラだな」
晶はそう言って、考えるそぶりを見せる。
「さすがにデータは渡せないけど、マンション内から持ち出さなければ……管理人室で見てもらうことならできるかもな」
「ほんとですか」
うん、と頷いて彼女は急須に手を伸ばし、私と自分の湯呑みにお茶を注ぎ足す。俺は? と言った小崎に、「自分で淹れろ、ポットはそこ」と空になったらしい急須を押しつけた。
「防犯カメラの映像は、管理人か理事長の立ち会いがないと見られないことになってるんだけど、それってつまり、どっちかが立ち会ってくれれば見られるってことだろ。今、加納のとこが理事長やってんだよ。あいつあんまり家にいねえから、動いてんのは妻のほうな。見せてほしいって言っとくよ」
晶はその妻のほうとは個人的に連絡をとりあうような関係ではないらしい。一つ上の階に住んでいるという彼女が帰宅したのが足音等でわかったら、部屋を訪ねて話をしてみるつもりだと言うので、ありがたいが、恐縮してしまう。
「すみません。急に押しかけて変なお願いをして」
「いいよ。事情が事情だし。公益のためってやつだろ。ていうか、こいつ、あわよくばネタにしようって思ってるから」
親指で小崎を指して晶が言った。
あ、バレてる、と小崎が笑う。
小崎にもメリットがあると思えば、少し気が楽になった。
晶に礼を言って、ベルファーレ上中を後にする。
来たときは正面玄関から入ったが、帰りは裏口から出た。
駐車場に、何台かの車が並んでいる。裏口に一番近い位置には、グレーのバンが停まっていて、体格のいい男性が運転席へと乗り込むのが見えた。運送業者かと思ったら、住人の車らしい。
その隣に停まった車から、買い物袋を提げた中年の女性が降りてきて、私たちと入れ違いに裏口から建物へ入っていく。
駐輪場には屋根があって、裏口まで続いている。駐車場から駐輪場までもすぐだから、車から降りて走れば、雨の日でもほとんど濡れずに建物に入れるわけだ。今のアパートも悪くはないけれど、雨の日の外階段は滑って危ないし、車を停めるスペースもない。やはりいつか、こういうマンションに住みたいものだ。
手が届かないほどの高級マンションというわけではないから、私の頑張り次第だ。今日こそ新作のネームを進めるぞ、と決意した。
「今日はありがとうございました」
「いえいえ。姉貴から連絡来たら、すぐ伝えますから」
小崎と、お互いの部屋のドアの前で別れる。晶の口利きで、ベルファーレのカメラの映像を見せてもらい、あのピンクの髪の少女が事件の被害者と同一人物かを確かめたら、加納を通して、警察に連絡する。そういうことになっている。
映像を見るときは、是非俺にも立ち会わせてくださいね、と小崎は笑顔で言った。
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隣人を疑うかなれ
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