11月9日に麻生幾さんの文庫新刊『救急患者X』が発売になりました。本書は、高度救命救急センターに勤務する医師・吉村が、トイレに現れては消える謎の血文字に翻弄されながらも、身元不明の患者「X」たちの奇怪な症状に立ち向かい、次第に隠された真実に近づいていく本格医療サスペンスです。ここでは、本書執筆のきっかけとなった著者の「ある体験」について、ご紹介します。
十数前のことだ。私は幻冬舎から出版予定の書き下ろし小説『ケースオフィサー』のため、ある病院の「高度救命救急センター」で二ヶ月間に及び徹底した取材をしていた。救急救命医療現場のシーンを予定しており、リアルな描写をしたかったからだ。幸いにも主任教授のご厚意によって、救急救命センターで働く多くの医師や看護師にインタビューする機会が与えられたのだった。
しかし彼らが忙しい昼間の時間は避け、深夜となった。そしてそこでの長い夜を何日か過ごすことになったのである。
「センター」とは、生命の危機に瀕した患者を受け入れる医療施設である。ゆえに、誤解を怖れずに言うと、必然的に死へと旅立つ患者が少なからず存在する。しかもそれら患者の家族にとっては絶望的な悲しみが押し寄せる場ともなる。
しかしそれでも「センター」の医師や看護師たちは全身全霊で患者たちの命を救うべく、夜中はもちろん二十四時間、医療に従事している。その過酷な現実はぜひ本書『救急患者X』をご覧になって頂きたい。
ところで、“体験”とは、取材を始めて三日目のある夜、確か、午前零時を二時間ほど過ぎた真夜中でのことだ。
当時、喫煙者だった私は、「センター」の入り口近くにあった野外の喫煙エリアにある、幅三メートルほどの通路を隔てて向かい合った二つのベンチの一つに腰掛け、眠気に打ち勝つためにタバコを吸って何気なしにその窓へ目をやっていた。
大きな欠伸をしながら背筋を伸ばして夜空を見上げた直後のことだった。目の前のベンチに一人の女性が腰掛けていた。顔は見えなかった。長い黒髪の毛をだらりと垂らし俯いて足を組んで身動きせず座っている。つい今し方まで誰もいなかったはずであったので気になってしばらく見つめていたが、インタビューを約束してくれた医局長が、ようやく落ち着いた、と言いながら私のところまで足を運んでくれた。私はそちらへ視線を向けて立ち上がり、お辞儀をして御礼の言葉を投げ掛けた。医師は私が座るベンチで隣に腰を落とした。すぐにバッグからノートとペンを取りだして顔を上げた、その時だった。さっきの女性の姿が向かい合わせのベンチから居なくなっていたのである。
納得できない私は、医師に救いを求めた。
「あっ、先生も、あのベンチに女性が座っていたのを見られましたよね?」
「女性? 見てないよ」
「よしてくださいよ」
私は苦笑した。このベンチに医師が座る時に必ず彼女の姿は視線に入ったはずである。医師は私を驚かせるために私にそんなそう言ったのだと思った。
「誰もいなかったよ」
「でも……」
私は口を噤んだ。だが私はそれを聞かざるを得なかった。
「変なことをお聞きして恐縮ですが、『例のアレ』を見た、なんてことはありませんよね?」
シリアスな医療シーンを描きたいために医局長からご教示を頂きたかったのが本来の目的だったので、その質問は、興味本位で訊いたというのが本音だった。
しかし医局長はこう言った。
「看護師の何人かは患者がいないベッドや個室からのナースコールを聞いたとか」
「で、どうなったんですか?」
私は、医局長が肯定することを想像していなかったので思わず勢い込んで尋ねた。
「さあ、どうだったかな」
医局長は苦笑して首を振って、科学者としてはこれ以上非現実的な会話は不要だという雰囲気になったが、こんな話を付け加えた。
「ここには精神疾患を始めとするバックグラウンドを抱えた患者、しかも氏名不詳の方、つまり『救急患者X』の誰かが徘徊していた可能性もあるな。念のために調べてくるよ」
医師は急に立ち上がってICUがある方向へと足早に戻って行った。その直後、パトライトの赤いネオンが辺りを照らし、サイレン音ととともに救急車が駆け込んできた。医師たちと看護師たちが一気に忙しくなった。さっきの医師ももちろんその中心にいた。私も遠目から取材に入った。だから、その話題はいつの間にか私も医師も忘れることとなった。
しかしその数年後。私の脳裡にそのことが蘇った。真相は今でもわからない。しかし、間違いないことは、私は確かに“その女性を見た”ということだ。だからこそ「救急患者X」の構想がどんどん浮かんでいった。その時にみかけた女性は脳裡に刻まれ、ある登場人物の姿となったのである。